岩松八弥 岩松八弥の概要

岩松八弥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/05 07:43 UTC 版)

広忠襲撃事件

松平広忠を刺殺したという説のほか、襲ってすらいなかったり、襲っても殺害まで至らないなど諸説ある。

  • 大久保忠教の『三河物語』には、岩松八弥の名前および広忠襲撃事件の記載はなく、松平広忠は病死とある。
  • 『東照宮御実紀』(徳川実紀)には、岩松八弥が隣国の刺客として、広忠を襲撃して一刀突いたとあるが死去とされていない、後に逝去とあるが死因に記載はない。
  • 『岡崎領主古記』[1]には、天文18年3月6日に広忠が岡崎において「横死」したとして以下の所伝を記している。
    • 「佐久間」[2]なる人物が広忠を討つべく家臣を岡崎へ奉公にだした。広忠はこれを「片目弥八」と呼んでいた。この日、広忠が縁側にでて「炎」(灸)を近侍のものにみせていたところ「弥八」が「後ヨリ討奉テ」逃走した。彼は「大手先ノ堀ノ中」で討ち取られた。
  • 『三州八代記古伝集』[3]には、広忠は病死したとしつつ(巻8下「広忠公御早世ノ事」)、一説として[4]「片目八弥」による広忠の殺害を次のように記している(同「安城ノ城攻之事」。年次不明)。
    • 「八弥」は「広瀬ノ領主佐久間九郎左衛門」[5]が広忠に近侍させたもので、「兼テ申含メ」られた八弥は「御書寝被成ケル所ヲ不意ニ討奉リ」逃走した。彼は「植村新六郎」によって堀に追い詰められ、討ち取られた。
  • 植村家貞の『貞享書上』(内閣文庫刊行本『譜牒余録』中巻723頁および『朝野旧聞裒藁』678頁に採録)には、広忠を脇差で刺したものの殺害するには至らず、八弥はその首を植村新六郎家政[6]にとられ、この功により植村は感状を与えられたと記している。年次は不明である。
  • 『武徳大成記』には、天文15年の記述の後に「此頃」の事として記す。それによると、八弥は「隣国のために謀られ」刀を抜いて寝所の広忠を刺した。逃げたところを植村新六郎家政に捕らえられ、2人は堀の中に落ちた。松平信孝が鑓で八弥を突こうとしたが[7]、結局植村がその首を斬ったという(刊行本1巻96頁)。植村が感状を受けたことなども記されている。広忠は病死したとする(刊行本1巻106頁)。
  • 三河後風土記』には、[8]天文14年3月19日、松平広忠が、戸田弾正康光が娘を娶り、祝いの席で皆が奇芸を披露したも、一眼の岩松八彌は武勇はあるが遊芸などを知らず、嘲わられたという。その翌日広忠が手洗い場に立った所を、後方から八弥が村正の脇差で刺そうとした。広忠はこれをかわしたが傷のため追いかけることができず、番替わりで登城の折の植村新六郎家次[9]が異変に気付き、逃亡した八弥を追い詰め、手傷を負うも捕らえた。また松平信孝がこの異変に気付き、槍で八弥を突き留めたという。松平広忠は、傷を負うも死亡には至らず、天文18年3月6日に病死したとする。

諸説-「朝野旧聞裒藁」での殺害・非殺害説-

同様に「岩松八弥」として綱文にその名を記す「朝野旧聞裒藁」には以下の所伝が採録されている(汲古書院刊行本1巻673より679頁および740より741頁)。その名を「片目弥八」「片目弥八郎」とするものがあり、また討ち取られた時期についても記述がわかれている。

広忠を殺害したとするもの

  • 「龍海院年譜」:天文18年3月6日、広忠16歳のとき「片目弥八郎」が岡崎城中へ忍び入りこれを害したとする。直後に広忠の戒名を記していることから「殺害」を意味するものと考えられる。「上村新六郎」がこれを討ち留めたとしている。
  • 「天元年記録」:天文16年3月6日「佐久間九郎左衛門」が「片目弥八」を奉公させて広忠を殺害し、「植村新六」がこれを討ち取ったとする。
  • 「岡崎古記」:同じく広忠殺害を16年3月6日とする。「片目弥八」を差し向けたのが「広瀬の佐久間九郎右衛門」(九郎左衛門の誤記か)もしくは「大浜の佐久間某」とする以外は「岡崎領主古記」に同じ。「佐久間九郎左衛門」と記す東大総合図書館蔵「参州本間氏覚書」の記述に文言同じ。
  • 三河東泉記には、岡崎城に在城の時、片目弥八に村正の刀で殺害された。上村新六が、弥八を討ち取った、という記述も紹介されている。(三河東泉記全74ページ目)同・東泉記には、鷹狩の折、一揆に殺害された、織田信秀の策略による物という記述もある。(17ページ目)PDF古文書翻刻ボランティア翻刻一覧より;岡崎市中央図書館。

殺害には至らなかったとするもの

  • 「松平記」:呼称は「片目八弥」。天文16年の条に「去年」に、として記される。広忠を「村正」の脇差で突き、植村新六郎と「出会組み堀の中へころび入」ったところを松平信孝に鑓で突き殺された。植村は感状を与えられた。(→巻1。『三河文献集成 中世編』105頁)
  • 「官本 三河記」:「片目八弥」。天文16年の条に「去年」に、として。内容上に同じ。
  • 「御年譜附尾」:「片目八弥」。内容上に同じだが、天文14年3月のこととして。広忠は「軽創」にして「恙無」しとする。(→巻2)
  • 「三河記大全」:14年の条に「片目弥八」として。内容上に同じで、広忠につき「恙なし」。
  • 「大永慶長年間略譜」:広忠公の家人「片目弥八郎」。15年冬のこととして。内容上に同じ。広忠と植村は「疵浅シ程ナクシテ癒エルト云」と記す。
  • 「三岡記」:「片目弥八郎」。15年冬に「松平三左衛門」に頼まれて広忠に2箇所の傷を負わせた。信孝が鑓で突いたところを植村がその首をとったとする。
  • 「治世元記」:同じく「片目弥八郎」だが、14年の条に3月のこととして。内容は「松平記」他に同じ。広忠の傷軽く「早く御平癒」とする。
  • 「御先祖記」:14年の条3月に、「片目八弥」として。内容上に同じ。広忠は「早速御平癒」とする。
  • 「武徳大成記」:既述。
  • 「三州八代記古伝集」:既述。
  • 「寛永諸家系図伝」:天文19年に「浅井某」あるいは「蜂屋某」が広忠を「突奉りて」逃げ去ったが「植村出羽守 はじめ新六郎」がその首をとったとする。広忠が殺害されたかどうかは記すところがない。「朝野旧聞裒藁」はその按文において、「浅井」とは「松平記」他に「異心の企てあり」と記された者(→前掲『三河文献集成 中世編』104頁。知行と引き換えに広忠を切ることを松平信孝に申し入れたという「岡崎衆浅井」)を誤り伝えたものであるといい、また「蜂谷」は「岩松八弥」の姓名を「詳らかにせずして」記したものであると述べ、年代・事実ともに従いがたいとしている。
  • 「貞享 植村右衛門佐 書上」:既述。
  • 「及聞秘録」:年次不明。「片目弥八」が「恨事有奉」て広忠を「村正」の脇差で突いた。これを仕損じた彼は植村に組み伏せられ、検議の上で刑に処せられたとする。

以上の所伝を採録した上で「朝野旧聞裒藁」は広忠病死説を採っている。「又曰く」としてそれを述べる「三州八代記古伝集」を除けば、広忠殺害を記すのは「龍海院年譜」「天元年記録」「岡崎古記」ということになる。


  1. ^ 新編安城市史5資料編「古代・中世」には、総侍尼寺の寺侍本間重豊著で、17世紀のうちに成立したとあり、具体的な年次の記載はない。愛知県図書館所蔵には、出版年・寛政11年(1799年)、出版者・中村左京、出版地不明とある。岡崎市図書館にも、写本複製とあるが、年次の記載はない。国立国会図書館・国立公文書館DBには登録されていない。
  2. ^ 愛知県図書館所蔵本などでは「佐久間」とのみ記すが「朝野旧聞裒藁」所載のものは「佐久間九郎左衛門」と記している。宮内庁書陵部所蔵「静幽堂叢書36」(請求番号:103-10)所載「岡崎領主古記」がこれにあたる。
  3. ^ 国立公文書館DBには、選者あるいは著者・水野監物、校訂者・竹渓伯竜 旧蔵・昌平坂学問所とある。岡崎市図書館にも、写本複製が所蔵されている。
  4. ^ 「其の実は」として広忠の殺害を記すが、もともとこの項目は「又曰く」として述べられていることから。
  5. ^ 「佐久間九郎左衛門」は明治25年の「三河国西加茂郡誌」141頁および同書の出典としてその名がみえる「東照軍鑑」(成立年不明)では「全孝」とされている(巻1)。「三河国二葉松」「三河志」には「九郎左衛門」とする以外に見るところがない。
  6. ^ 寛政譜』では「家存 初め家政」(新訂5巻174頁)とされる人物。その孫の植村家政とは異なる(同頁)。ただし『寛永諸家系図伝』『寛政譜』共に、広忠を襲った「浅井某あるいは蜂屋」(後述)を討ち取ったのは「家政」の父「某・新六郎」のこととして記し、「或は曰く家政」とする説を否定している。松平清康の殺害犯阿部正豊を討ち取った「某・新六郎」と同一人物とみられることを理由とする。なお『寛政譜』ではこの「某・新六郎」の項に「今の呈譜、氏明に作る」とし(同前173頁)「栄安」を法名としている。
  7. ^ 信孝は天文17年に広忠と戦い討たれているので、18年に事件が起きたとすると矛盾する
  8. ^ 序によれば徳川家康譜代の家臣の平岩親吉著作。国立公文書館・国立国会図書館DB登録。幕府の儒学者の成島司直が、幕末天保に、これを原書として校正する形で、「改正三河後風土記」を作成した。成立年代については、改正三河後風土記・凡例によると、原書・三河後風土記は寛永正保の頃の撰述という。江戸初期に既に成立していたという。
  9. ^ 『三河後風土記』では、松平清康の件は「植村新六郎栄安」、松平広忠の件は「植村新六郎家次」とあり、同一人物・別人については触れていない。『改正三河後風土記』には文中で注釈がある。『改正三河後風土記』では「植村新六郎家次」ではなく、「植村新六郎」(系図には某、諱を持益:もちまさ、出羽守家政が父、大三河志は永政とする)とあり、松平清康森山崩れで、阿部正豊を討った人物と同一人物であり、清康、広忠、2代の主君の敵を討った勇士とし、井田合戦で討死は誤り、と記す。
  10. ^ 公式に記録されている広忠の男子は当時、織田氏の下にいた竹千代(徳川家康)のみであるため、広忠が死亡すれば岡崎は城主不在の城となる。
  11. ^ 村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」(初出:『中京大学文学論叢』1号、2015年/所収:大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P377-379.






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