岩倉使節団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 13:17 UTC 版)
概要
- 背景
1870年7月に北ドイツ連邦 プロイセン王国とフランス帝国の間に勃発した普仏戦争は、ドイツ側の連合国が1871年1月に統一されドイツ帝国が成立、同年4月にはビスマルク憲法が施行され、5月には戦争が終結していた。
ただ、1870年10月に日本政府が北ドイツ連邦フランクフルトの印刷会社ドンドルフ・アンド・ナウマン社に注文した偽造通貨対策のための紙幣(明治通宝と呼ばれる)は、使節団が出発した1871年11月にはまだ届かなかった。
- 出発
明治4年(1871年)11月12日(陰暦)に米国太平洋郵船会社の蒸気船「アメリカ」号で横浜港を出発し、太平洋を一路カリフォルニア州 サンフランシスコに向った。その後アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問したが、アメリカには約8か月もの長期滞在となる。その後大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪した。
使節団はキュナード社の蒸気船オリムパス号に乗船して、1872年8月17日にイギリスのリヴァプールに到着した。ロンドンから始まり、ブライトン、ポーツマス海軍基地、マンチェスターを経てスコットランドへ向かう。スコットランドではグラスゴー、エディンバラ、さらにはハイランド地方にまで足を延ばし、続いてイングランドに戻ってニューカッスル、ボルトン・アビー、ソルテア、ハリファクス、シェフィールド、チャッツワース・ハウス、バーミンガム、ウスター、チェスターなどを訪れて、再びロンドンに戻ってくる。1872年12月5日はウィンザー城ではヴィクトリア女王にも謁見し、世界随一の工業先進国の実状をつぶさに視察した。1873年3月15日にはドイツ宰相ビスマルク主催の官邸晩餐会に参加。
ヨーロッパでの訪問国は、イギリス(4か月)、フランス(2か月)、ベルギー、オランダ、ドイツ(3週間、独語版)、ロシア(2週間)、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア(ウィーン万国博覧会を視察)、スイスの12か国に上る。帰途は、地中海からスエズ運河を通過し、紅海を経てアジア各地にあるヨーロッパ諸国の植民地(セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海等)への訪問も行われたが、これらの滞在はヨーロッパ各国に比べ短いものとなった。
当初の予定から大幅に遅れ、出発から1年10か月後の明治6年(1873年)9月13日に、太平洋郵船の「ゴールデンエイジ」号で横浜港に帰着した。留守政府では朝鮮出兵を巡る征韓論が争われ、使節帰国後に明治六年政変となった。
元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものとなる。政府首脳の半数近くが長期間外遊するというのは極めて異例なことだった[2]が、直に西洋文明や思想に触れ、しかも多くの国情を比較体験する機会を得たことが彼らに与えた影響は大きかった。また同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した。しかし一方では権限を越えて条約改正交渉を行おうとしたことによる留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延長、木戸と大久保の不仲などの政治的な問題を引き起こし、当時「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉(世間に対し何と言い訳)」と狂歌に歌われもした。
使節団のほとんどは断髪・洋装だったが、岩倉は髷と和服という姿で渡航した。この姿はアメリカの新聞の挿絵にも残っている。日本の文化に対して誇りを持っていたためだが、アメリカに留学していた子の岩倉具定らに「未開の国と侮りを受ける」と説得され、シカゴで断髪。以後は洋装に改めた。
- ^ 岩倉使節団 米欧亜回覧の会 岩倉使節団とは?『明治維新政府首脳による西洋文明調査旅行』 2017年2月4日
- ^ 牧原憲夫, p. 102.
- ^ アメリカではグラント大統領、イギリスではヴィクトリア女王、フランスではティエール大統領、ベルギーでは国王レオポルド2世、オランダでは国王ウィレム3世、ドイツでは皇帝ヴィルヘルム1世と謁見した。
- ^ 宮永孝「アメリカにおける岩倉使節団 : 岩倉大使の条約改正交渉」『社會勞働研究』第38巻第2号、法政大学、1992年1月、43-93頁、NAID 110000184475。
- ^ 長野桂次郎国立公文書アジア歴史センター
- ^ 池田寛治国立公文書アジア歴史センター
- ^ 阿部潜国立公文書アジア歴史センター
- ^ 岩倉使節団メンバー(出発時)米欧亜回覧の会
- ^ 吉雄永昌国立公文書アジア歴史センター
- ^ 瓜生震(読み)うりゅう しんコトバンク
- ^ a b “津田塾大学デジタルアーカイブ「津田梅子 4, 五人の女子留学生たち、シカゴにて」”. 津田塾大学. 2022年10月24日閲覧。 “津田塾大学デジタルアーカイブのファイル名:PH011_001”
- ^ 亀田 2005, p. 14
- ^ 三菱UFJフィナンシャルグループ (2009年1月8日). “MUFGのある暮らし 5号” (PDF). 2021年4月18日閲覧。 p.23
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