小畑敏四郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/18 14:21 UTC 版)
戦術思想
陸大校長としての小畑は、徹底した戦機の看破と好機の捕捉による積極攻勢思想を持論としており、防勢のみによって敵を屈服することは絶対にあり得ず、攻勢!攻勢!ただ攻勢あるのみ。たとえ防勢にたっても攻勢に転ずる機会を待つべきであると陸大で教えていた。
このため、学生達は当時陸大幹事(副校長格)であった岡部直三郎と比較し、積極攻勢な小畑と堅実戦法の岡部がそれぞれ司令官であったなら、同じ戦況であっても違う判断を下すのではないかと雑談していたという[3]。
秘話
1945年(昭和20年)9月2日の太平洋戦争降伏文書調印式に、陸軍参謀総長の梅津美治郎が出席を渋って居るのを見て、「今更敗けた陸軍に何の面目があるのだ。降伏の調印に参謀総長が行くのが嫌なら、陸軍の代表として私が行っても良いぞ」と梅津を叱り飛ばし、梅津に降伏調印式出席を納得させたという[4]。
年譜
出典:[5]
- 1885年2月19日、高知県生まれ
- 1891年、学習院初等科入学
- 1896年、京都府立尋常中学校転校3年編入
- 1901年、大阪陸軍幼年学校卒業
- 1903年
- 中央幼年学校卒業
- 近衛歩兵第1連隊配属
- 1904年
- 陸軍士官学校(16期)卒業
- 陸軍歩兵少尉
- 1905年4月、歩兵第49連隊附出征(樺太)
- 1907年12月、陸軍中尉
- 1911年11月、陸軍大学校卒業(23期)、陸軍大学校附
- 1913年8月、陸軍大尉、参謀本部員
- 1915年4月、ロシア駐在(第一次大戦時ロシア軍に従軍)
- 1918年4月、帰国 参謀本部附
- 同年7月、陸軍省軍事課員、元帥伏見宮貞愛親王副官
- 1919年7月、陸軍少佐
- 1920年6月、ロシア大使館附武官
- 同年11月、参謀本部部員
- 1923年3月、帰国
- 同年8月、陸軍中佐、陸軍大学校教官
- 1926年12月、参謀本部作戦課長
- 1927年7月、陸軍大佐
- 1928年8月、歩兵第10連隊連隊長
- 1931年8月、陸軍大学校教官
- 1932年2月、参謀本部作戦課長(第1次上海事変対応)
- 同年4月、陸軍少将、参謀本部第三部長(運輸・通信)
- 1932年8月、近衛歩兵第一旅団長
- 1934年3月、陸軍大学校幹事
- 1935年3月、陸軍大学校校長
- 1936年3月、陸軍中将
- 同年8月、依願予備役編入
- 1937年8月、召集・第14師団留守師団長
- 1938年5月、召集解除
- 1945年8月、国務大臣(東久邇宮内閣)
- 1947年1月10日[注 1]、死去
栄典
- 位階
- 1904年(明治37年)12月8日 - 正八位[6]
- 1918年(大正7年)7月10日 - 従六位[7]
- 1927年(昭和2年)9月1日 - 従五位[8]
- 1936年(昭和11年)4月15日 - 従四位[9]
- 1945年(昭和20年)9月1日 - 正四位
- 1945年(昭和20年)9月1日 - 従三位
- 勲章
- 外国勲章佩用允許
注釈
- ^ a b 国立国会図書館の「小畑敏四郎関係文書」の旧蔵者履歴では「1月25日」とされているが、そのリンク先にある「小畑敏四郎関係文書目録」の請求番号292番にある同年1月18日付の真崎勝次宛の吉田茂書簡では、小畑が既に逝去している旨の記載があり、請求番号316番の同年1月22日付の小畑の息子宛の吉田茂書簡でも、「御尊父御逝去」と記されている。
出典
- ^ 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』、『20世紀日本人名事典』『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』(コトバンク)
- ^ 藤井非三四 『帝国陸海軍 人事の闇』 光人社NF文庫 ISBN 978-4769832492、224p
- ^ 上法快男編、高山信武著、『続・陸軍大学校』芙蓉書房 1978年
- ^ 『作戦の鬼 小畑敏四郎』より
- ^ “小畑敏四郎関係文書 憲政資料室の所蔵資料”. 国立国会図書館 (2020年5月30日). 2021年6月19日閲覧。
- ^ 『官報』第6441号「叙任及辞令」1904年12月17日。
- ^ 『官報』1918年07月11日 叙任及辞令
- ^ 『官報』第264号「叙任及辞令」1927年11月14日。
- ^ 『官報』第2786号「叙任及辞令」1936年4月18日。
- ^ 『官報』第2129号「叙任及辞令」1934年2月8日。
固有名詞の分類
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