大亜細亜協会の活動
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蔣介石との連携によるアジア保全の構想は破綻したものの、松井は昭和8年(1933年)3月1日に大亜細亜協会を設立した(松井は設立発起人、後に会長に就任)。会員には近衛文麿、広田弘毅、小畑敏四郎、本間雅晴、鈴木貞一、荒木貞夫、本庄繁など、錚々たるメンバーであった。「欧米列強に支配されるアジア」から脱し、「アジア人のためのアジア」を実現するためには「日中の提携が第一条件である」とする松井らの「大亜細亜主義」が、いよいよ本格的な航海へと船出した。当時の松井の考え方を下記に引用する。 世界は政治的及経済的ブロックの境に従って区画せられて居り、その内若干の大国が主体となって国際聯盟が利用せられて居るのである。亜細亜に於て日支両国の如き鮮明なる政治的大陸を形成するものが、相互の間何等の諒解もなく、個々別々に聯盟に加入し、両国間の直接交渉によって解決せらるべき問題をも、本来極東には縁もゆかりもなき、従って認識も理解もなき欧羅巴諸国の手に鍛錬せられて、日支相互の反目と抗争を激成するの具に逆用せられたこと、せられっゝあることは、東洋永遠の平和の為めにも、亜細亜復興の為めにも、遺憾至極と云はなければならぬ。 昭和9年(1934年)1月6日、大亜細亜協会台湾支部が設立され、松井は名誉顧問に就任。 昭和10年(1935年)8月、現役を退き、予備役へと入った。
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