小畑忠良とは? わかりやすく解説

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小畑忠良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/06 09:46 UTC 版)

小畑 忠良(おばた ただよし、1893年明治26年)3月16日 - 1977年昭和52年)10月11日)は、日本の実業家企画院内務官僚弁護士企画院次長、大日本産業報国会理事長、大政翼賛会事務総長、官選愛知県知事、東海北陸地方総監

経歴

漢学者、小畑万治郎の六男として大阪府で生まれる。茨木中学校第一高等学校を経て、1917年(大正6年)3月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を優等で卒業し、銀時計を授与された。住友合資会社に入り総本店経理部に配属された。1923年(大正12年)2月から1925年(大正14年)3月まで欧米に商工業研究のため留学した。

1925年(大正14年)10月、住友総本店経理部第三課長となる。以後、同商工課長、住友電線製造所支配人、同取締役、同常務、同専務、住友合資会社参事、住友本社経理部長を歴任。

1940年(昭和15年)8月、企画院次長に就任。さらに、大政翼賛会企画局長、大日本産業報国会理事長[1]、大政翼賛会事務総長などを務めた。1945年(昭和20年)4月21日、親任式に出席して愛知県知事に就任する[2]が、同年6月に東海北陸地方総監に転じ終戦を迎える。同年10月、東海北陸地方総監が廃官となる。

1946年(昭和21年)9月、弁護士登録を行う。公職追放となり、1951年(昭和26年)8月に解除された。平和運動に参画し、大阪府知事選挙に革新系候補として三度出馬するが、いずれも次点で落選した。

親族

栄典

外国勲章佩用允許

伝記

  • 『小畑忠良を偲ぶ』小畑亮一、1985年。
  • 小畑忠良『平和一筋の道 - 小畑忠良の後半生』小畑忠良追想記刊行会、1987年。

脚注

  1. ^ 「機構改革、新たに常務理事制」『朝日新聞』1941年(昭和16年)12月3日(昭和ニュース事典編纂委員会『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』p.427 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  2. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第九』東京書籍、2016年9月29日、449頁。ISBN 978-4-487-74409-1 
  3. ^ 藤野勝太郞 (第8版 昭和3(1928)年7月 の情報)日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース
  4. ^ 高碕達之助のアジア版「シューマン・プラン」構想―戦後日中経済交流の原型―
  5. ^ 長谷川清外三十一名外国勲章記章受領及佩用の件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113504700 

参考文献

  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。



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