寝殿造 寝殿の内装・室礼

寝殿造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/07 15:07 UTC 版)

寝殿の内装・室礼

建物の内部に壁や間仕切りは少ない。初期には空間を区切るのに帷(かたびら)類、つまりカーテンや、御簾(みす)と呼ばれる簾(すだれ)を用いた[85]。その後の建具の発達により、次第に現在の襖やショウジで細かく仕切られるようになる[86][87]

『類聚雑要抄』にある室礼

420:「類聚雑要抄・巻2」[18]にある寝殿の指図。

画像420は12世紀前半の『類聚雑要抄』巻第二[18]にある寝殿の母屋と南庇にかけての室礼(しつらえ)指図、今風に言えば「内装図面」である。図の上2/3ほどが母屋、下1/3ほどが南庇である。塗籠(後述)を除く母屋四間とその南庇が主人のスペースとして一体化して使われている。指図の範囲は100㎡強の広さである。(以下「母屋」とは塗籠を除いたこの図の範囲を指す)

母屋の間仕切りについては、北面は押障子(後述)鳥居障子(後述:画像450がほぼ交互に使われている。内裏の紫宸殿なら賢聖障子が填められている処である[86]。はめ殺しの賢聖障子にも数カ所戸が付いていたが[86]、ここでは鳥居障子がその役目を果たしている。

母屋の西面(左)は填め殺しの押障子で通り抜けは出来ない。内裏の紫宸殿ではこの位置には漆喰の白壁がある[88]。母屋の東面、「帳」の右に棟分戸と書かれているのが塗籠の妻戸で、それが閉じられて御簾が掛けられ、前に屏風が置かれる。南庇は両側(東西)を鳥居障子で仕切っている。

平面図(画像110)にすると塗籠以外には壁が無いと言われる寝殿も、決してただのオープンスペースではなく、実際にはこうした取り外し可能、移動可能な建具で仕切られている[89](詳細は 室礼#『類聚雑要抄』にある室礼を参照)。

御簾

411:聖霊院の御簾

画像411は法隆寺聖霊院の御簾である。簾(すだれ)の敬称で特に上等のものを指す[90]。夜は蔀を閉じているが、日中は蔀の上部は通常外側に開くので御簾はその内側の内法長押に掛ける。更に内側に四尺几帳を置く。母屋と庇の間にも御簾を懸ける[91]。暗い中からは明るい外が見えるが外から中は見えない。中世には日常は明障子に置き換えられるが、仏事や儀式など正式な室礼には御簾が懸けられた[92][93]

几帳・壁代

421:東京国立博物館蔵「類聚雑要抄指図巻」より、几帳。

几帳(きちょう)と壁代(かべしろ)は布のカーテンである。帷(とばり:反物)を何枚か横に縫い合わせる[94]

画像421几帳で、持ち運び可能な台付きの低いカーテンである。御簾の内側に立てるのは四尺几帳で[95]、三尺几帳は主人の御座の傍らなどに用いる[95]。『松崎天神縁起』の裕福な受領・播磨守有忠の屋敷の居間のシーン画像440[96]の右上で奥方が寝そべって和歌を書いているが、その手前にあるのが三尺几帳である[97](「障子#几帳」も参照)。

壁代は几帳から台と柱を取って、内法長押(うちのりなげし)に取り付けたようなカーテンである。夏場は御簾の内側は四尺几帳だが、冬場は寒気を避けるために御簾の内側に壁代を掛け画像422、その内側にまた几帳を立てた[98](「障子#壁代」も参照)。

障子

現在「障子」というと桟に和紙が貼られ、緩やかな光の差し込むものを言う。しかし寝殿造の時代の初期においては、障子とは「さえぎるもの」「ふさぐもの」の意味で壁以外の仕切り、建具一般、可動パーティションの全てを障子と呼んだ[99]。しかし屏風は「屏風」と呼ばれ、几帳も「几帳」と呼ばれて障子と呼ばれることは少ない。障子の発達はそのまま寝殿造の発達でもあり、また書院造への道でもある。「障子」には沢山の種類があるが、ここでは先の指図画像420に出てきたものだけに限る。

押障子

内裏の紫宸殿で母屋と北庇を仕切る「賢聖障子」がもっとも有名であり、柱間に填めて間仕切りにする。取り外し可能なパネルであり、現に紫宸殿では儀式のあるときだけ填めている[100](「障子#押障子」も参照)。

鳥居障子

450:『枕草子絵詞』より鳥居障子。

遣戸障子は現在の襖の原型であり、国産で大陸には無い。記録上は10世紀末頃を初見とする[101]。鳥居障子は遣戸障子であるが、遣戸障子の全てが鳥居障子であったとは限らない。

画像450の襖状のものが鴨居の上まで含めて鳥居障子である。寝殿造は今の襖やショウジを前提とした建築物ではないので内法長押の位置が高い。そして当時は大工道具も未発達。平鉋(ひらかんな)もない時代[102]なので障子(襖)は今と同じ大きさで比べても非常に重い。その重い障子の鴨居が内法長押の位置で、そこまでが障子の高さだったとしたら、ただでさえ重い障子が更に重く使いにくくなる。鳥居障子はそれを改善するための工夫である[103]

現在では襖やショウジは建具でも鴨居や敷居は建物の一部である。しかし寝殿造の時代には敷居や鴨居も、その上の今なら塗壁や欄間の部分も障子であり、取り外し可能な建具の一部である。実際に儀式のときなどはそれを丸ごと外している[104][105](「障子#鳥居障子」も参照)。

畳み・円座、二行対座

455:『類聚雑要抄』巻第一にある東三条殿・寝殿で行われた「正月大饗」の指図

平安時代には現在の和室のように畳が敷き詰められるということはない。単体で敷かれるか二行対座である。二行対座とは中間にスペースを取り、畳みを二列に敷いて向き合う形である。画像455は『類聚雑要抄』巻第一にある東三条殿・寝殿で行われた「正月大饗」の指図である[106]。右の尊者(主賓)は公卿座を向いているが、その公卿座が二行対座である。

畳みは蓆(むしろ)を重ねて綴じたものであり、現在のもののように固くしまったものではなく、柔らかく弾力があった[107]。大きさは『類聚雑要抄』には「長七尺五寸弘三尺五寸」とある[108]

畳みの種類は最上級が繧繝縁(うんげんべり、うげんべり)だが、普通は高麗縁と紫縁で、高麗縁には大紋高麗と小紋高麗があり、室町時代の『海人藻芥』には大紋高麗は親王・摂関・大臣。小紋高麗は大臣でない公卿。公卿より下位の殿上人は紫縁とある[109]。この縁の種類でそこに座る者の位が表せた。また下位の者には畳みは敷かれず、円座のみの場合もある(「室礼#畳」も参照)。

塗籠から帳代構へ

塗籠

画像471は「家屋文鏡」の画像811だと眞下になってしまうテラス付きの家である。壁で囲われた建物が王の夜の居所(寝室)で、昼間の居所であるテラスと合わせて王のスペース。そして臣下は地面と推定される。その形は延喜式に定められた大嘗祭(だいじょうさい)の大嘗宮にも見られる[112]。内裏で言うなら「夜御殿」(よるのおとど)と「昼御座」(ひのおまし)である。その「夜御殿」と「昼御座」を切妻屋根で覆ったのが母屋で、それを庇で囲んだものが初期の寝殿である[113]

その壁で囲われた、寝殿造の中では唯一部屋らしい部屋が「塗籠」(ぬりごめ)と呼ばれ[114]、防犯上ももっとも安全な場である。ただし平面図が判明している東三条殿画像030などでは、「塗籠」とは言っても「壁」は極一部で、基本三方は妻戸であった。内裏の清涼殿では四方に扉である[115]

清涼殿で天皇は「夜の御殿」つまり塗籠に寝ていたが『長秋記』[116]によるとそれは堀河天皇までで、鳥羽天皇崇徳天皇は塗籠に寝なかったとある。この塗籠、あるいは寝所の変化が寝殿造の変化をもっとも端的に現しており、初期書院造にもその遺制が見られる[117][118]

帳台(帳)

先に挙げた12世紀(年月不明)画像420[18]の段階ではもう寝所(帳台)は塗籠の外であった。画像472は永久3年(1115)7月21日に当時左大臣だった藤原忠実東三条殿を相続し、そこに移ったときの寝殿の指図である[119]。この指図でも本来寝室であるはずの塗籠には何の室礼もなく、帳台(ちょうだい)は母屋中央に設置され、その脇と前に昼の御座がしつらえられている。画像473が帳台である。

障子帳(帳代)

440:『松崎天神縁起』の播磨守有忠の居間と障子帳

画像474はそれから半世紀後の応保元年『山槐記』にある二条天皇の中宮・藤原育子入内のときの飛香舎(ひぎょうしゃ:通称「藤壺」)の室礼である[120]。母屋四間に帳台、その脇と南庇に昼御座を設置してはいるが、それは中宮としての格式を示す形式的なもので、実際の生活の場、常御所(つねのごしょ)は母屋西端の二間である[121]。そしてその「常御所」と書かれたものが障子帳(しょうじちょう)で、南側入り口に「脇障子」が設えられている。

画像440は『松崎天神縁起』の播磨守有忠の居間で、播磨守の妻が畳みの上で横になっているがその部分が寝室ではない。これは寝ているのではなく、寝室の外の居間で夫婦がくつろいでいる図である。妻は寝そべって歌を書いている。寝室は背後の障子帳の帷(とばり)の中である[122]。室内に単独で立てられたものではなく既に建物に組み込まれている。黒い柱二本は漆塗りである。その二本の黒い柱の間に帷(とばり:カーテン)が下りる。二本の黒い柱の外側に細長い「脇障子」が填めてある[123]

このように絵巻などに出てくる寝所の図に出てくる狭い小壁「脇障子」は、そこが建物にビルドインされた障子帳であることを示す。この状態を単体で独立して立てられる障子帳と区別して「障子帳構」と呼ぶこともある[117]。それを装飾化したものが初期書院造の「帳台構」である[124]

その後の塗籠と納戸

鳥羽天皇の頃から帳台は塗籠の外に建てられたが[116]、しかし塗籠が寝室ではなくなったわけではない。画像481は南北朝の頃、観応2年(1351)の『慕帰絵詞』(ぼきえし)であるが、その左下に描かれているのが塗籠である[125][注 19]。東三条殿(画像030)の塗籠のように大きくはなく立派な妻戸も無い。しかし蹴破ればすぐに侵入出来る襖などではなく、塗壁や板壁に囲まれ、出入口の小さな遣戸には中から環貫が掛かるようになっている。中の広さは四畳ぐらいで畳みが敷き詰められ、塗壁の下には副障子が張られ、守り刀と枕が描かれている。

同じ『慕帰絵詞』の画像482は金庫室としての塗籠である。中には鞍などが置かれている。塗籠は最も閉ざされたスペースで元々金庫室と寝室を兼ねていた。塗籠から出て母屋に設置した帳台に寝るようになっても、その帳が徐々に変化して障子に囲まれた障子帳(帳代)となり、寝殿等の建具による間仕切りが進むにつれ、その障子帳も間仕切りのひとつとして建物に作り付けになってゆく[126]

一方で金庫室としての塗籠も完全に消えるわけではない。画像483は嘉禎3年(1237)正月時点の近衛殿の小型の寝殿である[127]。母屋を棟分戸で南北に仕切っているが、東側に「御帳」と「塗籠」が南北に並んでいる。「御帳」とあるのが作り付けになった障子帳である[128]

画像484は国立国会図書館蔵「室町殿御亭大饗指図」(永享4年7月25日)[129]や『満済准后日記』から川上貢が復元[130]したものを元に作成した足利義教の寝殿復元図である。そこにも金庫室としての塗籠が「御小袖間」として出てくる。ただしこの段階では塗籠「御小袖間」は母屋の東西どちらかではなく、母屋の北側、棟分戸の北に位置している[130]


注釈

  1. ^ 彷彿とは させるが、僧房を改造したものであるので寝殿造そのものではない。まず前面の弘庇部分に檜皮葺の庇を追加してはいるが、その奥は瓦葺きであり、斗拱(ときょう)も三斗である。
  2. ^ a b 馬道(めどう)とは長廊下の意味もあるが、この場合は屋根付きの土間の通路である。長い廊の中間の床を外し、馬が通れるようにすることもあるが、隣り合った別棟の建物の間に庇を伸ばすなどして、取り外しの出来る橋として厚板を渡したりする。
  3. ^ 頼長は儀式は東三条殿を使っており、寝殿母屋は儀式空間ではなく本当に居間・寝室と思われる。そのために北孫庇とはならなかった。
  4. ^ 東の泉殿は母屋・庇の構造なのかもしれないが、ここでは廊とした。母屋は通常二間だが一間の母屋の両側に庇という建物もある。
  5. ^ 太田静六も復元図を公表しているが(太田静六1987、p.691)、藤田盟児がそれを再検討し造営当時の姿をこのような形に復元した(藤田盟児2006、p.166)。日本建築学会編の現在の『日本建築史図集』(日本建築史図集2011、p.27)にはこの状態の後、中門廊代を追加した段階の藤田盟児案(藤田盟児1990)が掲載されている。寝殿と侍所の柱間寸法は10尺だが後付けの中門廊と持仏堂の柱間寸法は短い。
  6. ^ a b 「ハレ」(晴)と「ケ」(褻)の「ハレ」とは、「ハレの場」「晴着」の「晴」、表だった正式の場の意味である。それに対する「ケ」(褻)は日常の場を現す(川上貢1967,p.7)。例えば「褻衣」(けごろも)とは普段着とか部屋着・寝巻を指す。寝殿造においては儀式などにも使用する部分、寝殿だと母屋と南庇などを言い、それに対して北庇などを「ケ」(褻)の空間と呼ぶ。主に南北の軸である。一方で主に東西の軸に用いられる言葉に「礼」がある(飯淵康一2004,pp.294-300)。寝殿に対して正門側のことで、西に正門があれば「西礼の家」で、正門が東なら「東礼の家」と呼ばれる。
  7. ^ 「床」とはこの場合、玄関で靴をぬいで上がるその床である。
  8. ^ 太田静六は「一般貴族の邸宅までが瓦葺であったという実例は未だ一例も確認されていない」と言う(太田静六1987、p.29)。
  9. ^ 「丹土(につち)塗」とは一番身近には神社の鳥居のあの朱色である。より正確には薬師寺の複廊画像150や法隆寺講堂画像212などである。宇治平等院の朱色も現在は丹土塗に復元されている。ただし朱塗も複数あり、当時の朱塗りがどのようなものであったのかは必ずしも明らかではない(吉岡幸雄2000、p.21)。外国の使者が目にする大極殿朝堂院などは朱塗にした。
  10. ^ 椅子は内裏では使っている。現在では椅子に分類されるものは「あぐら」と呼び、字は「呉床」「胡床」。その中に「交椅(こうい)」「倚子(いし)」「床子(しょうじ)」などがあり「床子」は官庁でも用いられた(小泉和子2015、p.47-49)。ただし政務も含めた儀式、公の場では大陸式が格式であったということで、現在の「洋風」「和風」といったような日常生活全てに関わる様式ではなかった。
  11. ^ 例えば唐招提寺の講堂は平城宮の建物のなかで現存する唯一の遺構で、大極殿朝堂の南に位置した朝集殿が移築されたものだが、板床が貼られた痕跡は無い。東朝集殿時代の模型が平城宮跡資料館にある。
  12. ^ ただし、川本重雄は開放的であることを日本の特徴とはしない。日本でも江戸時代初期までの下層住宅は閉鎖的であり、そこから、寝殿造の源流を唐風の儀式建築に求める。
  13. ^ 中世から江戸初期頃までの間に建てられたと推定され「千年家」と称される古農家が3軒現存する。箱木家住宅古井家住宅横大路家住宅であるが、いずれも閉鎖的な建物である。
  14. ^ 「五間檜皮葺板敷東屋一宇在三面庇〈南五間懸板蔀五枚、東二間懸板蔀二枚、北三間懸板蔀三枚〉」(平安遺文、101号-1巻、p.88。〈 〉は割書を示す。)
    この時代の「檜皮葺」は現在のものとは相当に異なるはずと推定されているが(原田多加司2004、pp.118-121)、しかし五位以上の貴族にのみ許されていた葺材である。 「板敷」は内部に土間が無いことを現しており、この時代には主屋、つまり寝殿だけかあるいはそれに準ずる建物にしか現れない。この当時の製材法は「打割製材」(竹中大工道具館2009、p.20)で、床板は長さが6m前後となると厚みは10cm程度ある高価なものである。「施入状」なので「東屋」と謙遜してはいるが屋敷の広さは一町とあり、かなりの上層階級である。
  15. ^ 本稿では柱間の数を表すときには数に漢字を用いることにする。
  16. ^ 奈良時代には梁間が柱4本の三間もある。奈良時代の藤原豊成の家(画像814)もそうであるが柱間寸法は桁行よりも梁間の方が短い。発掘調査でも平城京には梁間三間の例があり、奈良の僧房には元興寺のように 梁間三間 も現存する。しかし平安京では梁間三間は古制を守る内裏紫宸殿が知られるだけである。
  17. ^ 具体的には水平方向1尺に対して垂直方向4寸5分(26.4度)程度が奈良時代、それが江戸時代には6寸(37度)前後と急勾配になる(原田多加司2003、p.287)。
  18. ^ 例として法隆寺聖霊院の内外陣を仕切る格子戸の細部寸法を見ると、框は見付け見込みとも30mm。格子部分は見付け24mm、見込み18mmである(高橋康夫1985、p.93)。
  19. ^ 「塗籠」と「納戸」は区別されることもされないこともある。例えば「帳台構」を「納戸構」ということもある。現在では「納戸」は「物置のような部屋」に近い使われ方をされるが、地方によっては今でも「寝室」を指すことがある。
  20. ^ 画像060で「客座」とあるのが一般に言う「公卿座」に該当する。
  21. ^ なお、対の屋根は寝殿と同じような入母屋屋根とイメージされる場合が多いが『年中行事絵巻』には南面の弘庇の屋根は、室生寺の金堂や宇治上神社拝殿、法隆寺の聖霊院のような縋破風(すがるはふ)に描かれている(画像511他)。
  22. ^ 枇杷殿、堀河殿共に里内裏となった第一級の寝殿造である。枇杷殿ではその後長和2年(1013)、長和4年(1015)にも「東対代」が出てくる(太田静六1987、p.197)。
  23. ^ 『中右記』には康和5年(1103)正月26日、高松殿で西中門南廊が院殿上になったとあるので、そのときには中門南廊にも床が張られていたことになる(藤田勝也2003、pp.176-177)(中右記、2巻、pp.258-259)。
  24. ^ ただし玄関の直接の源流には主殿造の「色台」(式台)も絡み単純ではない。
  25. ^ 例えば園城寺の光浄院客殿など。
  26. ^ 当時の社会のランクは位階ももちろん重要な要素だか、もうひとつ大臣、公卿、殿上人、諸大夫、侍、凡下・雑人という階層があり、「凡下・雑人」が庶民である。寝殿造の時代においてその階級と位階は若干ずれている。例えば公卿は普通三位以上と言われるが、それはおおよそであって四位でも参議の官職にある者は公卿である(和田英松1926,p.254)。
  27. ^ もちろんこれは絵巻的なデフォルメである。この絵は法然の母が法然を妊るシーンなのだが、実際には寝殿での寝所は北側であって南を寝所にするということはない(小泉和子1996a、p.155)。そもそも蔀も明障子も開け放して同衾するなどあり得ないのだが、それらを忠実に書いては物語上の説明にならない。なお、この茅葺・板葺のまるで農家のような小さな寝殿は、都の貴族ではなく地方の在地領主の表現である。この後の法然生誕のシーンや、父時国臨終の場面などではずっと広い、寝殿というより後の書院造の方に近い主殿のように描かれている(法然上人絵伝、pp.5-10)。
  28. ^ 例えば藤原道長の有名な土御門殿である(藤田勝也2005、p.51)。
  29. ^ この部分には時代により意味が変わる二つの言葉が出てくる。まず「職事」(しきじ)だが、平安時代前半には官職に就いている者を「職事」といった。しかし平安時代末から鎌倉時代のこの口伝の中では「大臣」「大納言已下(大臣以外の公卿)」と「諸大夫」の間に出てくる。その位置に相当するものは「殿上人」である。
    次に「家礼」で、後には「家来」の字を宛てるようになるが、平安時代においては有職故実などの家庭教師役であり(国史大辞典1999、「家来」の項の「家礼」の記述)、例え諸大夫であっても教授する者で従属的身分ではなかった。従ってこの文でも「家礼」は他の諸大夫とは別格になっている。なお『三条中山口伝』の「三条中山」とは三条実房と『山槐記』の中山忠親である。
  30. ^ ここで言う閑院は東三条殿焼失後の仁安2年(1167)12月に摂政藤原基房により新造されたもので、翌年の2月に高倉天皇がここで即位し、そのまま里内裏とした。その後、安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇まで代々里内裏とし、承元2年(1208)に焼失した。
  31. ^ 太田博太郎は1941年に『建築史』3-3 に発表した「公家住宅の発展とその衰退」を『日本建築史論集2-日本住宅史の研究』(1984)に収録する際に「付記」を追加し、その中で『中右記』の「如法一町屋」の片方が対代で、厳密には左右対称ではないことを認めているが、川本重雄のいう「むしろその方が寝殿造の完成像(典型像)」という言い方には否定的である(太田博太郎1984、p.412-414)。
  32. ^ 藤田はこの部分について2012年に「 『日本建築史』(昭和堂、1999年)の第五章において、「寝殿造の故実化」ととらえ、しかしそれは「寝殿造からの観点にもとづく」ものと評した。ただし、こうした一定の形式が定着した時期をもって「寝殿造の形骸化」としたことには、なお再考の余地がある」と保留している(藤田勝也2012、p.89、p.108、注25)。

出典

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