国鉄101系電車 運用

国鉄101系電車

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運用

101系は中央線・大阪環状線・山手線・総武線を中心に増備されたが、電動機の熱容量問題から駅間距離の短い路線での使用は不利な状況で、比較的どのような路線でも使える103系が製造され始めると、101系にとって一番条件に合わない山手線から撤退する。ここでは、時系列的に各路線への進出を見ていくことにする。

中央線快速・青梅線・五日市線

高尾駅 - 相模湖駅間の臨時列車の運用に就いた101系
(1982年9月)

中央線快速は国鉄初の新性能電車であるモハ90系の最初の投入線区であり、1957年12月より中央本線の急行電車としてモハ90系試作車の営業運転が開始された[46]。塗装はオレンジバーミリオン(朱色1号)となり、この塗装は後の103系201系の車体色やE233系の帯色にも継承された[46]

モハ90系は1958年3月より量産車の投入を開始して、増備が続けられた[47]。101系の中央線投入で捻出された72系は山手線へ転属して17 m級車を置き換えたほか、山手線で72系に置き換えられた17 m級車は南武線青梅線の増発および買収国電置き換えなどに転用されている[48]

当初の編成は基本8両編成と付属2両編成で、最大10両編成の全電動車による運転が計画されていた[47]。しかし全電動車10両編成では変電所の許容量を超えるため、試作車の運転開始直後から限流値を280 Aほどに抑えられたとされており、当初より本来の加速性能を落として運用する状況にあった[47]。その後の性能試験の結果、モハ90系統一までは暫定的に基本編成に付随車2両を挟んだ6M2Tの8両編成で増備されることになり、将来の電動車化を考慮した付随車としてサハ98形が登場している[47]

1959年6月の形式称号変更により、モハ90形・サハ98形は101系と呼ばれるようになった[49]。1959年11月のダイヤ改正では101系8両基本編成の青梅線乗り入れが開始されたが、変電所容量の関係で青梅線内では電動車1ユニットを無動力として4M4Tで運転された[50]

101系は10両編成で8M2Tの高い電動車比率であり、付随車も将来の電動車化が想定されていた[50]。しかし電動車の新造費用は付随車よりも約1,000万円高く、国鉄の限られた予算の中で電動車の多い101系を増備するのは割高で大きな負担となった[50]。将来的に101系に統一されても変電所の増強など多大な投資が必要で、将来の輸送量増加にも見合わないことが分かり、国鉄では101系の電動車比率を下げることが検討されるようになった[50]。101系の主電動機性能では4M3Tが限界とされたため、10両編成で6M4Tとなるよう基本編成が4M3Tの7両、付属編成が2M1Tの3両となる編成への組み換えが1960年に行われた[50]。中央線急行電車は1960年に101系で統一された[51]

1961年3月17日、中央線急行電車は快速電車の呼称に変更された[52]。これは1960年に新宿 - 松本間で急行料金を要する気動車急行「アルプス」の運行が開始されたことにより、急行料金が不要な速達列車を区別するためである[52]。同年3月20日には中央線国電区間の最西端である浅川駅が高尾駅に改称された[52]。1961年投入の101系には高尾以西の狭小トンネル区間にも入線可能な低屋根車800番台も含まれており、平日は中央線快速の運用に入ったほか、休日は新宿 - 甲府間定期列車の代走や高尾 - 相模湖間臨時列車(相模湖臨)などに運用された[52]

中央線快速電車の車両基地は中野電車区三鷹電車区武蔵小金井電車区の3区所に置かれていた[53]が、輸送力増強のため1963年に豊田駅西方に車両基地が開設され、1966年11月10日には豊田電車区が発足した[54]。中野電車区は緩行線電車のみの所属となり、三鷹電車区は地下鉄東西線直通用301系中央東線普通列車用115系も配置されるようになった[54]

1967年7月3日、中央線快速の東京 - 高尾間で特別快速の運転が開始された[54]。運行開始当初は前面窓の内側に「特別快速」の小型表示版が掲出されたが、9月には大型のヘッドマークに変更された[54]。この表示版・ヘッドマークには「特」と「快」の文字が大きく書かれていたため、特別快速を「特快」と略す呼称が定着した[54]

中央本線の支線で国分寺 - 東京競馬場前間を結ぶ下河原線では、日中の閑散時間帯には旧性能車のクモハ40形が使用されていたが、朝夕のラッシュ時や東京競馬場での競馬開催時には101系が運用された[54]

青梅線沢井駅-御嶽駅間を走行中の特別快速「おくたま」
(1982年11月)

青梅線では戦後の1949年より中央線との直通運転が行われており、101系も旧性能電車の置き換えで1960年代より氷川御嶽方面への直通運転列車に使用されていた[55]。1970年4月20日のダイヤ改正で春から秋の行楽シーズン休日に運転される臨時特別快速が設定され、翌1971年より新宿 - 氷川間が「おくたま」、新宿 - 御嶽間が「みたけ」の列車名となった[56]

1971年2月1日には青梅線の氷川駅が奥多摩駅へ改称されるとともに、奥多摩 - 東京間の直通列車と五日市線武蔵五日市 - 東京間の直通列車がそれぞれ運転を開始した[56]。1971年10月1日のダイヤ改正では「みたけ」1往復が武蔵五日市発着編成と拝島駅で分割併合を行うとともに、翌1972年より五日市線直通列車に「あきかわ」の愛称が付くようになった[57]。同年7月以降は「おくたま」「みたけ」全列車が「あきかわ」と併結するようになった。当初は濁らない「あきかわ」表記であったが、後に濁る表記の「あきがわ」に変更されている[57]

1972年10月のダイヤ改正では平日にも中央線と青梅・五日市線を直通する快速電車が増発され、拝島駅で分割併合が行われたほか、併結列車の五日市線乗り入れや五日市線内運用も設定された[57]

1972年夏には101系の試作冷房車が投入されており、国鉄では103系試作冷房車が1970年に投入されていた山手線に次ぐ2番目の通勤冷房車投入線区となった[57]。中央線快速の101系冷房車は主に特別快速で運用された[58]

1973年4月に武蔵野線府中本町 - 新松戸間で開業することになり、101系66両が1000番台に改造されて武蔵野線開業用に転用された[59]。中央線快速には103系冷房車66両が豊田電車区に投入されており、101系を103系に編入したサハ103形750番台が組み込まれた[59]。1973年7月の103系投入では中央線快速の101系8両が関西本線電化開業用に転用され、同年9月に鳳電車区へ転属した[59]。1974年には103系3編成で先頭車が高運転台ATC準備車に差し換えられたが、101系への変化はなかった[59]

1977年の南武線新性能化に伴い、中央線快速と赤羽線の101系が南武線に転用されることになった[59]。三鷹電車区には京浜東北線から103系冷房車が転入しており、モハ90系が初配置された三鷹電車区の101系の配置は消滅した[59]。南武線は支線を除いて1978年に101系に統一されている[60]

1978年からは101系の老朽置き換えを目的とした103系の新製投入が開始され、101系は1979年に初の老朽廃車が発生した[60]。103系は高運転台非ATC車の103系も新製投入され、101系非冷房車を直接置き換えたほか、101系冷房改造車が南武線の101系非冷房車置き換え用に転出した例もあった[60]

1979年には電機子チョッパ制御を採用した201系の試作車が三鷹電車区に投入され、同年8月20日より営業運転を開始した[61]。201系は1981年に量産車が登場しており、三鷹電車区は同年10月に、豊田電車区は1983年3月改正で中央線快速用編成が201系に統一された[61]。101系は武蔵小金井電車区に残存したが、103系はこの改正で101系よりも先に中央線快速から撤退している[61]

1982年からは武蔵小金井電車区にも201系の投入が開始され、残る101系の置き換えが開始された[62]。置き換えられた101系は大半が廃車になったが、1982年8月の台風10号により関西本線王寺駅の留置線で冠水した101系の廃車代替として101系54両が関西地区に転用されており、そのうち16両が元中央線快速用であった[63]

1983年9月25日をもって、101系低屋根車で運転されていた高尾 - 相模湖間の休日臨時列車の運転を終了した[63]。翌1984年5月6日には相模湖湖畔で行われたコンサートの観客輸送として高尾 - 相模湖間で101系10両編成の臨時列車が運転されており、101系が高尾以西へ乗り入れる最後の運転となった[63]

1983年10月1日からは101系の分割運用の一部が201系に置き換えられ、1984年2月1日のダイヤ改正で分割運用が全て201系になった[64]。これにより101系は青梅・五日市線の乗り入れを終了し、201系の分割を行わない10両編成と共通運用となった[64]。中央線快速用101系の定期運用は1985年3月13日をもって終了し、中央線快速は1985年3月のダイヤ改正で201系に統一された[65]

1985年4月29日には中央線快速101系のさよなら運転が行われ、新宿 - 高尾間1往復での「さよなら電車」の運転をもって中央線快速用101系の運用は終了した[65]

山手線・赤羽線

山手線には中央線、大阪環状線に次いで1961年より101系が投入され、塗装はカナリアイエロー(黄5号)となった[66]。新製配置に先立って乗務員訓練用に武蔵小金井電車区から池袋電車区へ貸し出された1編成が1961年9月5日より営業運転を開始し、同年10月6日よりカナリア色の101系が新製配置された[67]。山手線への101系投入で捻出された旧型車は京浜東北線横浜線南武線などの増発や常磐線の20 m車化に転用されている[67]

当初の編成は4M3Tの7両編成であったが、駅ホームや車両基地等の留置線の延伸により山手線用101系は1963年10月1日までに6M2Tの8両編成化が完了した[67]

1963年には山手線が101系で統一されたが、1964年より経済性を重視した103系が導入されたのに伴って中央・総武緩行線へ順次転出し、山手線用101系は1969年4月に消滅した[66]。103系はウグイス色(黄緑6号)の塗装で投入されており、以降の山手線のラインカラーとなった[66]。山手線の101系は将来的に総武緩行線に転用することを前提に投入されていた。

赤羽線も1965年7月から山手線と同じ8両編成になっており、車両の配置も山手線と同じ池袋電車区であった。その絡みもあり、山手線に103系が投入されて捻出された101系を用いて赤羽線の101系化を行った。編成は山手線と同じ黄色(黄5号)の6M2Tが用いられたが、山手線同様に首都圏ATC化路線に指定されたため、1978年2月までに103系4M4Tにて置き換えられた。

中央・総武緩行線

中央・総武緩行線の101系(1978年)

中央・総武緩行線には1963年より101系が配置されていたが、山手線の101系が103系に置き換えられた際にも転用投入された[68]。塗装は山手線時代のカナリアイエロー(黄5号)が踏襲された[68]。総武線の周辺線区電化に伴って101系の運用範囲も拡大し、総武線用101系は房総地区の成田木更津へも乗り入れたほか、夏季の行楽シーズンには1971年まで「房総夏ダイヤ」による臨時快速電車「さざなみ」などで房総西線千倉館山へ乗り入れていた[68]

東京都心の主要線区としては最も遅くまで101系が残り、中央・総武緩行線の101系はJR化後の1988年11月に定期運用を終了した[68]

京浜東北線

京浜東北線は、通勤輸送の改善が最優先に行われてきた路線で、新性能化は103系により1965年11月から実施していたものの、配置両数が700両以上と多いことから、1970年に入っても4分の3は旧形国電であった。そこで1970年10月1日ダイヤ改正で通勤路線の運転時分査定が緩和され、中央線と総武線で101系が30両捻出されたことから、この30両を用いて京浜東北線の新性能化を促進することとなり、101系では初めて車体塗装を青色(青22号)にして投入された。編成は中央線や総武線同様6M4Tである。また103系にはラッシュ時にドアに何かが挟まった場合、その挟まったドアのみ再び開けることができる再開閉装置が付いていたことから、転用される101系にも取付改造を施した。なお、山手線用101系には新製時から再開閉装置は付いている。その後、同様な理由で捻出された20両と合わせ、合計50両が京浜東北線で103系と共に運転された。101系の青22号色はこの京浜東北線が唯一の例である[69]。山手線や赤羽線と共に首都圏ATC化路線に指定されたため、1978年3月までに103系に置き換えられた。

南武線

南武線では1969年に中央線快速用編成の貸し出しにより101系が一時期運用されていたが、南武線用として中原電車区に配置されたのは1972年からである[69]。1978年に南武線本線の新性能化が完了した。

国鉄末期には首都圏の101系冷房化改造車が南武線に集約された[69]。103系と205系の投入に伴い、南武線本線の101系はJR化後の1991年に運用が終了した[70]

南武支線用の車両はJR発足後にワンマン化(塗色も変更)とAU712形による冷房化の2つの改造を受けており、他線で使用されていた車両が全廃された後も長い間使われていたが、205系1000番台への置き換えにより2003年(平成15年)11月28日までに定期運用を終了した。2005年(平成17年)8月1日にクモハ100-172・クモハ101-130が廃車されたのをもって廃系列となった。

武蔵野線

武蔵野線では1973年4月の府中本町 - 新松戸間開業時に101系1000番台が改造投入された[70]。改造(転用)後は全車が豊田電車区配置(東所沢電車区常駐)で、武蔵野線で運用されていたが、1986年(昭和61年)3月3日のダイヤ改正で豊田区の青梅線五日市線用の103系5連が6連に増強されてから共通運用となり、103系や201系とともに両線の6連運用にも充当された。また南武線仙石線に貸し出されたことや、大宮支線経由の府中本町 - 大宮間臨時列車に充当されたこともあった。

101系1000番台は種車が経年の高い初期車が中心であったこと、また武蔵野線への103系投入[注 18]に伴い、10月26日のさよなら運転をもって全車が営業運転を終了した[71]。これにより首都圏からオレンジ色(朱色1号)塗装の101系が消滅した。その後国鉄分割民営化時にクモハ101-1006とクモハ100-1003の2両は保留車としてJRに継承されたが、翌1988年(昭和63年)3月までに廃車となった。廃車後に後述の秩父鉄道へ譲渡された車両もある。

鶴見線

鶴見線に101系が投入されたのは1979年で、翌1980年1月に大川支線を除き101系に統一された[72]。配置は弁天橋電車区であった。民営化後は南武線と同じ中原電車区所属となり冷房車も使用されたが、103系の投入により1992年4月に運用を終了した[72]

大阪環状線・桜島線

大阪環状線30周年「歴史電車」(1991年4月)

大阪環状線は国鉄で中央線に次ぐ101系2番目の投入線区となり、城東線時代の1960年10月に運転を開始した[66]。101系投入時は大阪 - 天王寺間が城東線、大阪 - 桜島間が西成線の路線名であったが、境川信号場 - 西九条間の新線建設などにより1961年4月25日に大阪環状線が開業し[73]、西成線の西九条 - 桜島間は桜島線に改称された[74]。塗装は中央線と同じくオレンジバーミリオンとなったが、72系など大阪地区の旧性能電車も大半が1959年より中央線の101系に合わせたオレンジバーミリオンに変更されていた[75]

当初は中央線から転入の電動車に新製投入の付随車を組み込んだ6両編成3本が投入され、淀川電車区に配置された[76]。大阪環状線開業に備えて1960年に開設された淀川電車区森ノ宮派出所にも101系が本格的に新製投入され、森ノ宮派出所は大阪環状線開業直前の1961年4月1日に森ノ宮電車区となった[77]。1962年6月には101系による大阪環状線の新性能化が完了している[73]

大阪環状線開業後しばらくは西九条 - 天王寺 - 大阪 - 西九条 - 桜島間の逆「の」の字運転であったが、西九条駅の旧西成線区間高架化により1964年3月より環状運転が開始された[73]。1968年3月のダイヤ改正では大阪環状線と桜島線の直通運転がラッシュ時を除いて廃止され、日中の桜島線は101系3両編成による区間運転となったため、首都圏より関西の101系で初のクハが転入している[73]

1969年には103系6両編成2本が森ノ宮電車区に配置され、同年12月より101系に混ざって運用に入った[73]。1970年12月よりラッシュ時の混雑緩和策として一部編成の8両編成化が行われ、8両編成となった車両は先頭車前面窓内側に「8」の数字が掲出された[78]。1973年には103系新製冷房車の投入が開始され、捻出された101系は関西本線電化開業用に転用された[78]

1976年には大阪環状線用101系・103系の全車8両編成化が完了し[78]、桜島線も6両編成となった。103系の投入はその後も続けられ、101系は1979年10月に大阪環状線用編成での運用を終了し、以後は桜島線用編成のみの運用となった[78]

桜島線でも1985年3月のダイヤ改正で103系に置き換えられ、森ノ宮電車区の101系の配置は無くなったが、民営化後に最後まで片町線に残っていた101系2本が6両編成で森ノ宮電車区へ転入し、桜島線での運用が復活した[45]。この編成も207系量産先行車(第1編成)の導入による103系の転配によって置き換えられ、1991年(平成3年)3月に同線での営業運転を終了した。4月29日には大阪環状線開通30周年を記念したイベント電車「歴史電車」が101系で運転され[45]、これを最後に1992年(平成4年)限りで全廃となり、関西地区から101系は姿を消した。

103系への改造車であるサハ103形750番台はその後も一部が残存したが、2002年(平成14年)10月までに全車廃車となった。

関西本線

関西本線の101系(1975年)

1973年に関西本線湊町 - 奈良間が電化されたのに伴い、普通列車用として101系が大阪環状線や中央線快速からの転入により投入された[70]。塗装は若草山の緑にちなんだウグイス色で、先頭車両正面には警戒色として黄色いラインが入れられた[70]。配置は当初は鳳電車区であったが、1978年の紀勢本線電化に伴って日根野電車区が開設されており、関西本線の電車も日根野電車区へ転属した[79]

1982年(昭和57年)8月1日から2日にかけての台風10号による大雨で大和川支流の葛下川が氾濫し、王寺駅に留置されていた101系60両と113系40両が床上まで冠水し使用不能となった[80]。被災した101系には初期車が多く、電気機器の冠水による絶縁劣化が発生し、床材が水を吸い膨れ上がる現象が発生した[80]ため、復旧不可能として60両全車が廃車となった[81]。代替として首都圏で廃車予定の101系54両が急きょ転用されたほか、片町線で103系投入により余剰となった101系6両も転用され、被災車60両が補充された[80]。113系40両は車齢が浅いため復旧された[80]

当時は首都圏への201系投入で101系の置き換えが進められており、代替車の確保自体は可能であったが、首都圏と関西圏では保安装置が同じATS-Bでも軌道回路周波数が50 Hzと60 Hzで異なるため、改造の必要があった[80]。運転に支障する大きな問題点はなかったため、1982年8月7日から9月30日にかけて首都圏の101系54両が転入している[80]

転入車の塗装は元中央線快速の車両がオレンジ地に前面黄帯入り[82]、元中央・総武緩行線の車両が関西地区には福知山線所属の103系にしか無かった黄色(カナリアイエロー)のまま使用されていた[82]。これらの車両の先頭部および出入口上部には「関西線」と記載されたステッカーを貼っていた[82]

1983年より東海道・山陽緩行線への201系新製投入で捻出された103系が関西本線に転用されたのに伴い、関西本線の101系は1985年1月に運転を終了した[83]

片町線

片町線の101系(1986年12月 長尾駅

片町線には1976年より101系の配置が開始され、翌1977年に101系への統一が完了した[72]。配置は淀川電車区である。1978年には関西の101系で初の冷房化改造車も登場し、その後も103系とともに運用された[72]。JR化後も冷房車主体の2本が残ったが、1989年に森ノ宮電車区へ転出して桜島線へ転用されたため、片町線用の101系は消滅した[72]


注釈

  1. ^ 1956年の72系全金属車以前は、床や内装に木が用いられた半鋼製車であったが、不燃・軽量化のため金属、合成樹脂などを用いて内装から木材を廃した。
  2. ^ 1959年からの動力近代化計画に発展する。
  3. ^ 汽車製造の試作車の技報では、「使用条件の過酷な近郊形で試作試用を行えば、幹線用電車への導入も容易であるとの配慮に基づいたもの」と説明している。
  4. ^ モハ90形の国鉄側責任者は、後に新幹線計画において重要な役割を果たすことになる島秀雄技師長である。
  5. ^ 戦前の「弾丸特急」の凍結から「東海道新線」が復活したのはモハ90形の登場と同じ1957年(昭和32年)であり、翌1958年に現行の東海道新幹線の建設が決定された。モハ90形の成績は新幹線計画に主に車両面での技術的裏打ちを与えた(ただし、標準軌でバックゲージに余裕があるため、新幹線0系電車では、中空軸平行カルダン方式である必要性が薄いことから、軽量化のためにWNドライブ方式が採用された)。
  6. ^ モハ101は9.5 t[6]。車体重量はモハ72(全金属化以前)の24.5 tに対しモハ101は21.6 t。
  7. ^ 初代。木造車サハ25形の鋼体化17 m車で戦災廃車となった。なお、戦災を免れたサハ75形の僚車は戦後サハ17形に改称された。
  8. ^ モハ101で計測。なお、比較対象としたサハ87のねじり剛性は床板が木製のため4.55×1012(kgf2/rad)と圧倒的に新性能電車以降の車両より小さな値となっている。
  9. ^ 当時の国鉄で扇風機を標準装備としていたのは二等車以上と、特急運用に入る三等車のみで、通勤用や普通列車用の三等車には全く装備されていなかった。
  10. ^ 1950年代後期の日本では、アルストーム・リンク式や円筒案内式(シュリーレン式・SIG式等のスイス系技術)など新しいタイプの軸ばね機構が欧州から導入され、国内メーカー経由で大手私鉄電車に採用されつつあった。それらはメンテナンスの省力化や高速安定性に優れた特性を備えていたが、反面製造ライセンス取得などの問題で、方式ごとに製造メーカーが限定される問題があった。国鉄はその施策上、特定メーカーしか製造できない特殊設計を主力方式として大規模に導入することはできなかった。
  11. ^ CS12形(東芝形式PE14)は阪急向けPE10、PE13、東急向けPE11と同系のMPE形制御装置と明記されている。
  12. ^ SE:電磁直通、L:ブレーキ調整装置、D:発電ブレーキの略。
  13. ^ 参考に、岡部によれば当時の中野-三鷹間約10 kmの高架複々線化が約200億余りと見積もられていた。
  14. ^ 電車1962年7月号参照
  15. ^ 車両設計事務所で電気機器設計を担当した猪野淳之助によれば、途中運転局や電気局との打ち合わせを重ねた中でも変電所容量については重要視されなかった。(『鉄道ピクトリアル臨時増刊 車両研究』2003年12月、27-28頁)
  16. ^ 101系回生ブレーキ試作車の落成は1960年3月末。
  17. ^ 第6位には205系の1461両が続くが、その大半が国鉄分割民営化後の製造であり(国鉄時代の製造数は368両に過ぎない)、製造数において101系は国鉄の旅客車中で群を抜くグループのひとつであった。
  18. ^ 武蔵野線に充当された103系は、101系のように番台区分の変更は行われていない。また運輸省によるA基準・A-A基準を定めた鉄運81号通達後に製造された103系や201系等は、より厳しいA-A基準に準拠している。

出典

  1. ^ JREA1959年8月号P.13
  2. ^ 鉄道ピクトリアル1964年4月号P.35
  3. ^ 平石大貴「101系電車のプロフィール」『鉄道ピクトリアル』2013年4月号、p.10
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  6. ^ 『鉄道ピクトリアル』No.385 p.11
  7. ^ a b 編集部「101系電車のプロフィール」『鉄道ピクトリアル』2002年11月号、p.13
  8. ^ a b c 「直流電車の設計特集 車体」『車両技術』1963年6月P23[注 8]
  9. ^ 「電車モーターを設計していたころ (PDF)」 、『わだち』第130号、鉄道友の会福井支部、2010年5月。
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  11. ^ 東芝レビュー Vol. 13 No. 2 p. 98[注 11]
  12. ^ 「東京急行電鉄5000形」 p. 37
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  86. ^ 電気車研究会『鉄道ピクトリアル 臨時増刊号 鉄道車両年鑑 2014年販』 2014年10月10日発行






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