名護屋城 名称

名護屋城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/06 13:18 UTC 版)

名称

史跡名称は、「名護屋城跡並陣跡」であるが、鎮西町教育委員会の堀苑孝志は、陣跡以外の遺物や遺跡の様子から、より包括的な名称として「肥前名護屋軍事都市遺跡」という名称を提唱している[5]

歴史・沿革

背景

名護屋城本丸跡

天正15年(1587年)、豊臣秀吉九州の役島津義久を降した後、天正18年(1590年)、小田原の役において奥州伊達政宗を服属させ、北条氏直を降し、徳川家康関東に移封して天下統一を成し遂げた。国内統一の途中においてすでに秀吉は世界に目を転じており、九州平定以来、「高麗」つまり李氏朝鮮に、服属と征伐への協力を要請したが、朝鮮は拒絶した。その後も対馬宗義調らが複数の交渉を重ねるが、朝鮮側は拒絶の意志を変えなかった。なお秀吉は同様に琉球呂宋高山国台湾)にも使者を出した。

築城

浅野文庫所蔵 諸国古城之図[6]

宗義智から交渉決裂を聞いた秀吉は、天正19年(1591年)8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、肥前名護屋に前線基地としての城築造を九州の大名に命じた。秀吉は自分の地元那古野と同じナゴヤという地名を奇遇に感じ、城の立つ山の名前が勝男山と縁起がいいことにも気を良くしこの地への築城を決めたのだが、この地の領主であった波多親はこれに反対したため不興をかった。また甥の内大臣豊臣秀次関白を譲って自らは太閤となった。9月、平戸城松浦鎮信に命じて壱岐の風本に城を築かせた。その築城の担当は、松浦鎮信、日野江城有馬晴信大村城大村喜前、五島城主五島純玄であった(宇久純玄はこの年、姓を五島に改める)。なお、城跡から出土した瓦に「天正十八年」の銘があるものが発見されたことから、築城開始時期が通説の天正19年より早かった可能性も考えられている。

10月上旬、全国の諸大名が名護屋へ到着し、城普請に取りかかった[7]。『松浦古事記』によれば、20万5,570あまりの兵が高麗へ渡り、名護屋在陣は10万2415兵で、総計30万7,985兵で陣立てされた[7]

築城に際し、縄張りを黒田孝高、そして黒田長政加藤清正小西行長寺沢広高らが普請奉行となり、九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で8か月後の文禄元年(1592年)3月に完成した。規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであった。

ルイス・フロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した名護屋には、全国より大名衆が集結し、「野も山も空いたところがない」と水戸の平塚滝俊が書状に記している[8]。唐入りの期間は、肥前名護屋は日本の政治経済の中心となった[9]

作事衆

築城にあたっては本丸数寄屋や旅館などの作事奉行長谷川宗仁が担当した[10][7]。大手門は御牧勘兵衛尉が担当し、各所の建築が分担された[7]

構造

名護屋城のステレオ空中写真(1977年国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
名護屋城馬場跡

本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に望楼型5重7階の天守が築かれた。城跡からは金箔を施した瓦が出土しており、天守に葺かれていたものと考えられている。城郭の周辺には各大名の陣屋が配置された。

  • 本丸は東西五十六間、南北六十一間、総高さ三十二間一尺五寸であった。
  • 乾の角に天守台があり、高さ十五間。海より池まで十二間一尺、池より三の丸まで十四間三尺五寸。三の丸より本丸まで五間三尺五寸、以上右高さ也。池の長さ百六十三間也、巾十一間より三十一間まであった[7]
  • 二ノ丸は、東西四十五間、南北五十九間。掘立柱の長屋跡が発掘されたが、これは築城時の小屋であったと推定されている。
  • 遊撃曲輪は、東西廿六間、南北二十四間。門の礎石が発見されている。
  • 弾正曲輪は長さ九十五間、横四十五間又三十間。
  • 水ノ手曲輪は十五間四方。本丸等から流れ出る水をこの曲輪に集めたと伝わり、水関連の施設があったとされる。
  • 山里曲輪は東西百八十間、南北五十間横ニ廿間四方。茶室等があったとされる。
  • 城の廻りは十五町、城への入口は五ヶ所あり、大手門、西ノ門、北ノ門、舟手門、山里通用門だった[7]
  • 三ノ丸は、東西三十四間、南北六十二間。
  • このほか、腰曲輪・小曲輪・合而十一曲輪であった [7]

完成後も度々改築を繰り返したとされ、本丸西側は築城後に石垣部分を壊すことなくそのまま埋め立てて増築された事が判明し、旧石垣も発掘展示されている。三の丸櫓台北側では築城後に改造を受けて門が設置され、その後また撤去された事が発掘調査で判明している。 本丸大手、大手口、東出丸周辺も構造や櫓、城門に大きな相違が見られ、残された「肥前名護屋城図屏風」の二枚とも、現状と異なる部分が確認されている。


  1. ^ 学習研究社編『【決定版】図説 よみがえる名城 漆黒の要塞 豊臣の城』( 学習研究社2008年
  2. ^ 平井聖監修『城』(九州沖縄 8) (毎日新聞社、1996年
  3. ^ 中井均・三浦正幸監修「城を復元する」(学習研究社編『よみがえる日本の城30』学習研究社、2006年)
  4. ^ 名古屋離宮の誕生
  5. ^ 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』 (文英堂、2000年) 37頁
  6. ^ 『浅野文庫所蔵 諸国古城之図』(矢守一彦編 新人物往来社 1981年)広島市立図書館特別集書
  7. ^ a b c d e f g 『松浦古事記』巻之下(小瀬甫菴道喜撰)・六 名護屋御陣所の事[1]
  8. ^ 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』(文英堂、2000年)
  9. ^ 笠谷和比古・黒田慶一同書36頁
  10. ^ 『萩藩閥閲録』・『太閤記』
  11. ^ 名護屋城跡、認知度に課題 魅力発信へ模索続く西日本新聞 - 2020年9月13日
  12. ^ 専用アプリで肥前名護屋城に“バーチャル登城”『産経新聞』 2015年4月14日






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