名護屋城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/06 13:18 UTC 版)
概要
名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣副城があったが、豊臣秀吉は大陸への侵攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。
名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170,000平方メートルにわたり築かれた平山城の陣城である。五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた[1]。 城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄した。
秀吉の死亡後、大陸侵攻が中止されたために城は廃城となったと考えられており、建物は寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わる[2]。石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている[3]。
- 大正15年(1926年)11月4日、「名護屋城跡並陣跡(なごやじょうあとならびにじんあと)」として国の史跡に指定される。
- 昭和30年(1955年)8月22日特別史跡に指定された。
- 平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(87番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された
明治時代頃の県の古地図には、すべて名護屋の地名は“名古屋城”、“名古屋浦”、“名古屋村”と表記されており、特に正式な公文書では名古屋と書くのが通例だったのが、大正からは“名護屋”と変化している。この元の地名の名護屋は、秀吉の出身地の名古屋と音が同じだったため築城場所に選んでいる。最初は名古屋城とは先に完成した肥前名古屋城の方を指した。秀吉死後に家康の江戸時代が始まるとすぐに城を破壊されて城自体はなくなり、いち早く江戸の将軍自ら尾張に音の同じ名古屋城が築城され、段々と尾張名古屋城は名古屋城としてあまりにも有名になった。ここに住む者達はその抵抗はあったか不明だが、歴史的経緯や地名はずっと慣れた名古屋の書き名を使い続け、一部の人の中で名古屋城は2つ混在しつづけ、徳川家が築城した尾張名古屋城による知名度の高まりで尾張名古屋城の認知度が全国的に一般的に波及しつつも、県地域の人々によって名古屋という地名の継承が守られ続けた。一方で、秀吉のいた時の出身故郷の名古屋は人口も少ない村だったが、明治の廃藩置県によって県名の名古屋県や愛知県庁所在地の名古屋市を設置し、名古屋というと国内のみならず世界でも通用する地名度と人口は爆発的に増えて押しも押されぬ巨大都市へと急成長して有名になりすぎた名古屋城への遠慮や、更には陸軍省の所管となった後に宮内省の所管となり名古屋離宮として大地震被災後も宮内庁によっって国費を投じて文化財として永久保存が決定しそのため修復される[4](後には旧国宝第一号に設定となる)など、天下人の城よりも更に上の天皇所有の城となったことへの配慮など、そのようなことをきっかけに意思の変貌があったとされ、当時を知る人の時代も変わり、拘りの消失や、同じ名称の混同や誤解を避けて利便性の重視を選んだことで、大正の頃からは元の名護屋の地名に直し(戻し)、現在の名称としてすべて一斉に統一するようになったと考えられる。
黒澤明監督による『乱』(昭和60年(1985年)公開)のロケ地の一つに、名護屋城が選ばれ撮影が行われた。
- ^ 学習研究社編『【決定版】図説 よみがえる名城 漆黒の要塞 豊臣の城』( 学習研究社、2008年)
- ^ 平井聖監修『城』(九州沖縄 8) (毎日新聞社、1996年)
- ^ 中井均・三浦正幸監修「城を復元する」(学習研究社編『よみがえる日本の城30』学習研究社、2006年)
- ^ 名古屋離宮の誕生
- ^ 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』 (文英堂、2000年) 37頁
- ^ 『浅野文庫所蔵 諸国古城之図』(矢守一彦編 新人物往来社 1981年)広島市立図書館特別集書
- ^ a b c d e f g 『松浦古事記』巻之下(小瀬甫菴道喜撰)・六 名護屋御陣所の事[1]
- ^ 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』(文英堂、2000年)
- ^ 笠谷和比古・黒田慶一同書36頁
- ^ 『萩藩閥閲録』・『太閤記』
- ^ 名護屋城跡、認知度に課題 魅力発信へ模索続く西日本新聞 - 2020年9月13日
- ^ 専用アプリで肥前名護屋城に“バーチャル登城”『産経新聞』 2015年4月14日
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