古河財閥 古河財閥 主要企業

古河財閥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/16 01:38 UTC 版)

古河財閥 主要企業

古河鉱業(現・古河機械金属)の設立

古河機械金属の頁に、詳細が記されているためそちらを参照。

古河電気工業の設立

古河電気工業は、1920年(大正9年)に古河鉱業(現・古河機械金属)の工業部門・日光電気精銅所・本所鎔銅所と、1908年(明治41年)以降に古河財閥が資本参加していた横浜電線製造(旧・山田電線製造所)とが合体し、社名を古河電気工業として設立された。古河鉱業は、1884年(明治17年)に本所鎔銅所を設置、1906年(明治39年)には日光電気精銅所を建設、更に1908年(明治41年)には横浜電線製造の経営権(株式を過半数取得)を掌握して、精銅・伸銅・電線部門に確固たる地位を築き、その上この部門に関わる多くの傍系企業を持っていたが、それは古河鉱業が銅を中心とした鉱山業から下流加工業へ進出する明確な経営戦略があったことに基づいている。

古河電工は、1921年(大正10年)に九州電線製造を吸収合併し、1922年(大正11年)に横浜の電機製作所で電話機の生産を開始した(この電話機生産が後の富士通につながる)。また、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)と資本提携し、三菱鉱業が古河電工の株式5万株(12.5%)を所有し、見返りに電線・伸銅部門は古河電工に一任するというもので、これにより古河電工の経営基盤は強固となった。九州電線製造を吸収した後、古河電工傘下の電線会社は、東京の日本電線と大阪の日本電線製造の2社であった。関東大震災の被災を免れた日本電線は、業務の拡張のため1923年(大正12年)に倍額増資を企図したが、古河合名会社(現・古河機械金属)(所有6676株)と古河電工(所有2349株)の両者は合計で3938株しか応じることができず、そのために資本支配力が弱体化した。そのほか古河財閥は前述の古河商事・大連事件の余波を受けて、古河銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)と古河合名会社の日本電線などの傍系会社に対する金融的な援助が及ばなかったことがある。このような背景のもとで、日本電線は東京製線を吸収するなど古河電工と競合する積極的な経営活動を行なうに至り、1926年(大正15年/昭和元年)にその協約書が破棄され、日本電線は独自の道を歩むことになった。古河合名会社から派遣されていた日本電線専務・崎山刀太郎は協約書破棄の前年に古河合名会社を辞職し、その後、日本電線と大日日本電線の合併を推進し、先述のように三菱電線工業の創設が行なわれた。

富士電機製造(現・富士電機)の設立

1919年(大正8年)市兵衛の時代からの付き合いであるドイツシーメンスと協力し、電気機械器具の製造事業への進出計画が具体化したのは、第一次世界大戦後にドイツと日本の双方で始まった。

提携交渉は順調に始まったが、古河財閥側では古河商事の破綻と日本における恐慌の深刻化があり、シーメンス側もインフレーション克服のための対外投資の禁止策などの制約が生じ、交渉は一時、停滞した。その後、古河合名会社(現・古河機械金属)にかわり古河電気工業がシーメンスとの交渉当事者となり、両社の提携に対する熱意が高まる中で、1923年(大正12年)に富士電機製造(現・富士電機)が設立された。富士電機製造の「富士」とは、古河の頭文字「ふ」とシーメンス(Siemensのドイツ語読みはジーメンス)の頭文字「じ」に因んだものである。

新会社の業務開始日の1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生したが、幸い東京の本社事務所は損傷なく、事業は東京シーメンス社から引き継がれた在庫品と受注残でつないだ。しかし、川崎工場の建設は少し遅れ、ようやく1925年(大正14年)からシーメンスの技術指導を得て品質の安定した製品を市場に供給し始めた。

古河電工は、富士電機製造の設立の前からと横浜電線製造所内に電機製作所を設け電話機の製造を行なっていた。富士電機製造は重電および弱電を持つ総合電機会社となった。弱電部門(電話機部門)は、1935年(昭和10年)に富士通信機製造(現・富士通)の設立により同社へ移管されることになった(後述)。

その後、満州事変(1931年(昭和6年))から日中戦争(1937年(昭和12年))までの6年間の日本経済は、軍備拡大による軍需品の急速な需要の拡大があり、富士電機製造は急速な規模拡大と業績の向上が続き、事業の発展への大きな契機となった。第二次世界大戦中、シーメンスとの提携関係は途切れたが、戦後の1952年(昭和27年)に技術提携を復活させ友好関係を維持しつつ、家電部門からは撤退し、重電機器を中心に経営を発展させた。

富士通信機製造(現・富士通)の設立

1935年(昭和10年)に、富士電機製造(現・富士電機)の電話機部門を母体として富士通信機製造(現・富士通)が富士電機から分離・独立して設立された。富士通信機製造の「富士」とは、古河の頭文字「ふ」とシーメンス(Siemensのドイツ語読みはジーメンス)の頭文字「じ」に因んだものである。

分離・独立の第一の要因は、経営上の理由であった。すなわち、通信機関係は製造面や営業面で重電機器とは性格を異にし、シーメンスが当時、強電部門と弱電部門を別会社として経営しており、独立して経営した方が得策であるとの判断に基づいたのである。特に、主要顧客の逓信省(現・総務省)との良好な関係維持を促進するものであった。そのことは、富士通信機製造の発足時に、東京逓信局から大山喜四郎を代表取締役専務として招聘したことからもいえる。

第二の要因は、東京電気(現・東芝)との提携による。東京電気は当初、電球・真空管を製造していたが、1930年(昭和5年)以降に無線通信機器の製造を開始した。しかし、有線通信機には手が回らなかった。一方、富士電機は有線通信機器では地歩を築きつつあったが、無線通信機器までは手が回らない状況であった。そこで、当時の東京電気社長・山口喜三郎(元・古河機械金属常務、元・古河電気工業専務)は富士電機や古河財閥各社の幹部と旧知の関係にあり、富士電機は有線通信機器、東京電気は無線通信機器に特化して協力し共同の利益を上げるという趣旨の「事業共同経営に関する覚書」が締結された。そして、それに基づき両社はそれぞれ新会社を設立して、専業化した事業を行なうこととし、富士電機は富士通信機製造を、東京電気は東京電気無線を設立した。

富士通信機製造と東京電気無線の両社は相互に株式を持ち合い、富士通信機製造には東京電気社長の山口喜三郎が、東京電気無線には富士通信機製造社長の吉村萬次郎が、それぞれ取締役に就任した。その後、互いに有線機器・無線機器の特化に対する縛りを緩和し、契約解消の機運が高まる中で、1939年(昭和14年)に東京電気が芝浦製作所と合併し東京芝浦電気が設立され、1943年(昭和18年)には東京電気無線が東京芝浦電気に吸収されるに及び、東京芝浦電気の初代社長となった山口喜三郎からの申し入れにより、所有株式を相互に返還して事業共同契約は解消された。

富士通信機製造はその後、通信機事業をベースとして電子計算機に進出し、それと並んで工作機械の自動制御事業(のちファナック)を発展させていくことになる。

横濱護謨製造(現・横浜ゴム)の設立

古河電気工業の前身の1つである横浜電線製造は、電線製造業に携わる中で電線被覆用ゴムのほかに工業用ゴムの製造を×行なっていた。1913年(大正2年)頃、横浜電線製造常務取締役として赴任していた中川末吉(後に古河電工社長、横浜ゴム社長)は、工業用ゴムの将来性を高く評価して、高級ゴム製品の製造を目標とし、外国技術の導入・外国企業との提携の機会を企図していた。

一方、東京において営業所を設け自動車用タイヤチューブ・工業用ゴム・一般用ゴム製品の輸入・販売を営んでいたアメリカのBFグッドリッチ(BFGoodrich)は、かねて東洋に製造工場を設置することを模索していた。そして、古河財閥が国内におけるゴム製品の市場予測や提携相手先の調査をしていた動向を知ったグッドリッチの東京営業所代表から、中川末吉に両社共同による工場設置案を提案してきた。1917年(大正6年)6月、グッドリッチの本社代表が来日し古河財閥側と折衝、技術はグッドリッチが提供し、経営は古河側が担当するという基本骨子で覚書が調印された。引き続いて1917年(大正6年)10月、新会社「横濱護謨製造」(現・横浜ゴム)が設立された。なお、取締役会長には古河鉱業(現・古河機械金属)の中島久万吉が就任した。

1923年(大正12年)9月に関東大震災が発生、平沼工場は完全に崩壊・焼失した。1924年(大正13年)3月にグッドリッチ副社長(横濱護謨製造取締役を兼務)レーモンドが来日し、当初、工場再建を断念する意向を表明していたが、平沼工場を訪問した際に、焼け跡の整理・機械の手入れに専念する従業員の真摯な姿に感動し翻意市、漸進的再建方策に合意した。

引き続いて、当時の社長・中川末吉の強力な指揮のもと、グッドリッチの横濱護謨製造再建に関する危惧に対して、日本市場の将来性と事業継続の有望性を粘り強く説得して、1925年(大正14年)にグッドリッチと工場の再建計画についての合意が成立、工場は再建され、その後、満州事変(1931年(昭和6年))期を経て経営は発展的な軌道に乗った。

旭電化工業(現・ADEKA)の設立

1915年(大正4年)、古河合名鉱業部(現・古河機械金属)副部長の山口喜三郎が桂川電力(現・東京電力)の役員と電力を利用した新事業としてのソーダ工業の創業について協議し、これが端緒となり同年に古河合名会社(現・古河機械金属)・桂川電力・東京電気(現・東芝)の3社出資の匿名組合「東京電化工業所」(現・ADEKA)が設立され、電解ソーダの工業化試験が開始された。そこでの晒粉生産に成功し、1917年(大正6年)に東京電化工業所を発展的に解消し、新会社「旭電化工業」(現・ADEKA)が設立された。

旭電化工業の設立の背景は、1914年(大正3年)の第一次世界大戦の勃発により、それまで需要の大部分を輸入に依存していたソーダ灰・苛性ソーダの海外からの調達が難しくなり、ソーダ工業製品の国内需要が急増したため、当時の最新技術である電解ソーダ法により、ソーダ製品を製造することを目的とした。古河合名会社は鉱業から工業への展開を模索しており、桂川電力は電力の新規需要先の開拓のため、東京電気は電気製品事業の新しい展開を図ることを目途とし、3社それぞれの企図が合致して合弁事業が発足した。発起人は古河合名会社理事長・近藤陸三郎、古河合名鉱業部副部長・山口喜三郎、桂川電力社長・雨宮亘ほか2名、東京電気監査役・長富直三(東京電気元・社長、山口喜三郎の岳父)であった。

旭電化工業は、第一次世界大戦後の恐慌(1920年(大正9年))とアメリカ・イギリス両国からの苛性ソーダの輸入の増大という試練を受けて赤字計上が続き、また古河商事の大連事件の発生(1920年(大正9年))の影響もあり、会社の閉鎖の議論が行なわれたが、経営者と従業員が一丸となって会社存続を訴え、経営の発展基盤が確立された。

日本軽金属の設立

古河財閥はアルミニウム送電線の製造に関心を持ち、1919年(大正8年)にイギリスのブリティッシュ・アルミニウム社とアルミ棹の輸入・製造技術供与契約を締結し、1920年(大正9年)には鋼心アルミニウム線の製造を開始。1921年(大正10年)、古河電気工業日本電力(戦前まで存在した五大電力会社の1社)の大阪岐阜間の送電線に鋼心アルミニウム線を供給し、日本での鋼心アルミニウム線の先鞭を付けた。

東京電燈(現・東京電力)は精錬用電力を開発しアルミニウム事業の発展を企図しており、政府のアルミニウム増産要請もあって、両社の合意は成立し、1939年(昭和14年)に日本軽金属が設立された。

日本軽金属は、1942年(昭和17年)以降、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終戦まで、アルミニウムに関して日本一の生産量を上げたが、戦争末期には原材料のボーキサイトの確保ができず操業停止となった。戦後、1948年(昭和23年)にはボーキサイトの輸入が再開され操業を再開し、1950年(昭和25年)の朝鮮動乱の勃発により生産は飛躍的に増大し、引き続いて1954年(昭和29年)から1957年(昭和32年)にかけての神武景気の期間に経営発展の基盤を築いた。その後、1970年代の2度にわたる石油危機の発生により、同業各社がアルミニウム精錬から撤退していったが、日本軽金属のみは現在も活躍している。

日本ゼオンの設立

日本ゼオン財閥解体後の1950年(昭和25年)に設立されたため、「古河グループ」の頁で記述する。

帝国生命保険(現・朝日生命保険)の設立

帝国生命保険(現・朝日生命保険)は1887年(明治20年)に創業。古河財閥とのかかわり合いは1910年(明治43年)に帝国生命保険取締役・志賀直温古河市兵衛足尾銅山を共同経営した志賀直道の息子)の斡旋で古河鉱業会社(現・古河機械金属)が株式所有(10%)したのがきっかけ。

その後、帝国生命保険を古河財閥の唯一の生命保険会社にするために株式保有を増加させながら、1918年(大正7年)に古河合名(現・古河機械金属)社員の木村長七を監査役として送り込み、1920年(大正9年)には古河合名総理事の井上公二取締役に就任させた。更に1924年(大正13年)には井上公二が帝国生命保険社長に就任し、その後、同社株式を市場から買い入れ1927年(昭和2年)に同社株式の過半数を取得、帝国生命保険を傍系企業に加えた。同社の経営権を取得したことにより、1927年(昭和2年)の金融恐慌に際し古河銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)の古河合名への貸付金の一部肩代わりをするなど、古河財閥の金融に貢献し、古河財閥側から役員の派遣を続け、第二次世界大戦後の財閥解体に至るまで同社の経営を担当。

戦後の1947年(昭和22年)、新しく朝日生命保険として相互会社形態で発足し(帝国生命保険は株式会社であった)、相互会社となったため古河グループからの資本関係はなくなったが、同社は古河三水会の理事会社として、古河グループ各社と協力関係(古河グループ各社への資本参加を含む)を維持している。

古河銀行(みずほ銀行)の設立

本頁の「古河銀行の破綻」「第一銀行(現・みずほFG)と古河グループとの関係」の項を参照。


注釈

  1. ^ 京都大学で採鉱学第2講座を担当していた。(京都大学百年史編集委員会『【部局史編 2】第9章: 工学部』京都大学後援会、1997年9月。hdl:2433/152973https://hdl.handle.net/2433/152973 

出典

  1. ^ a b 広瀬隆『持丸長者 : 日本を動かした怪物たち』ダイヤモンド社、2007年、系図6頁。ISBN 9784478920442NCID BA81384649全国書誌番号:21176521 






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