ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
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作品
ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、幅広いジャンルにわたって作曲を行い、オペラ以外のあらゆる曲種を手がけた。その様式は、通奏低音による和声の充填を基礎とした対位法的音楽という、バロック音楽に共通して見られるものであるが、特に対位法的要素を重んじる傾向は強く、当時までに存在した音楽語法を集大成し、さらにそれを極限まで洗練進化させたものである。したがって、バロック時代以前に主流であった対位法的なポリフォニー音楽と古典派時代以降主流となった和声的なホモフォニー音楽という2つの音楽スタイルにまたがり、結果的には音楽史上の大きな分水嶺のような存在となっている[49]。
バッハはドイツを離れたことこそなかったが、勉強熱心であらゆる伝統の幅広い音楽を吸収した[43]。フランドル楽派の声楽ポリフォニー、ジョヴァンニ・ガブリエリからヴィヴァルディに至るまでのヴェネツィア風の協奏曲様式、バロック音楽の基本である通奏低音と独唱によるモノディーの原理、フランス風序曲やイタリア協奏曲等の各国の諸形式、組曲や変奏曲といった様々な様式を自身の音楽に反映した[43]。更には、オルガニストのブクステフーデやラインケン、ヴァイオリン奏者のピゼンデル、フルート奏者のビュファルダン、リュート奏者のヴァイスといった同世代の音楽家たちからの影響を受けて、バッハの楽曲は誕生した[43][注釈 10]。 とりわけ、古典派のソナタにも比すべき論理性と音楽性を持つフーガの巨匠として名高い。
現代においてもなお新鮮さを失うことなく、ポップスやジャズに至るまで、あらゆる分野の音楽に応用され、多くの人々に刺激を与え続けている。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの作品はシュミーダー番号(BWV、「バッハ作品目録」 Bach Werke Verzeichnis の略)によって整理されている。「バッハ作品目録」は、1950年にヴォルフガング・シュミーダーによって編纂され、バッハの全ての作品が分野別に配列されている。また、1951年からドイツのヨハン・ゼバスティアン・バッハ研究所(ゲッティンゲン)で「新バッハ全集」の編纂が開始され、1953年にバッハアルヒーフ(ライプツィヒ)もこの編纂に参加するが、10年で終わると予想されていた編纂作業はドイツの東西分断などの事情で難航し、「新バッハ全集」103巻が完成したのは2007年のことであった。「新バッハ全集」には1100の作品が収められている。現在も作品の整理が継続中である。
管弦楽・協奏曲
器楽だけによる合奏曲では、ブランデンブルク協奏曲、管弦楽組曲、複数のヴァイオリン協奏曲、チェンバロ協奏曲などがある。特にブランデンブルク協奏曲や管弦楽組曲には、G線上のアリアのもととなる楽章など、広く親しまれている作品が多い。 なお、4台のチェンバロのための協奏曲BWV1065は、アントニオ・ヴィヴァルディの協奏曲(協奏曲集『調和の霊感』Op.3の10、4つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲」の編曲である。
室内楽曲
室内楽曲作品はそれまで伴奏として扱われてきたチェンバロの右手パートを作曲することによって、旋律楽器と同等、もしくはそれを上回る重要性を与え、古典派の二重奏ソナタへの道を開いたヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ、フルートとチェンバロのためのソナタ、ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタなどが作曲された。なお、バッハの場合の「ソナタ」とはいわゆるバロック・ソナタ(大部分が緩・急・緩・急の4楽章からなる教会ソナタのスタイルをとる)であり、古典派以後の「ソナタ」より簡潔な形である。
器楽曲
オルガン曲
バッハの器楽曲の中でもオルガン曲は歴史的に重要である[51]。生前のバッハはオルガンの名手として著名で、その構造にも精通していた。また、聴覚に優れ、教会堂やホールの音響効果を精緻に判別できた。 そのため、各地でオルガンが新造されたり改造された際にはたびたび楽器の鑑定に招かれ、的確なアドバイスと併せて即興演奏をはじめとした名技を披露し、聴衆に圧倒的な印象を与えたと伝えられている。『故人略伝』が伝える有名な逸話として、1717年、ドレスデンにおいてフランスの神童と謳われたルイ・マルシャンと対戦することになった際、マルシャンはバッハの余りに卓越した演奏に恐れをなして対戦当日に逃げ出し、バッハの不戦勝となったという[52]。
バッハのオルガン作品は、コラールに基づいた「コラール編曲」と、コラールに基づかない「自由作品」(前奏曲、トッカータやフーガなど)の2つに分類される。現存する主要作品は、30曲余りの自由作品と、コラール前奏曲の4つの集成(オルガン小曲集を含む)、いくつかのコラール変奏曲である。
クラヴィーア曲
バッハの時代には、ピアノはまだ普及するに至っておらず、バッハのクラヴィーア(オルガン以外の鍵盤楽器の総称)作品は、概ねチェンバロやクラヴィコードのために書かれたものとされている。その多くはケーテンの宮廷楽長時代に何らかの起源を持ち、息子や弟子の教育に対する配慮も窺えるものとなっている。
- 平均律クラヴィーア曲集 (Das wohltemperierte Klavier 独)(全2巻、第1巻 BWV846‐BWV869、第2巻 BWV870‐BWV893) - 長短24調による48の前奏曲とフーガ。ベートーヴェンのソナタがピアノの新約聖書と称されるが、このバッハの平均律クラヴィーア曲集はピアノの旧約聖書と称される。音楽史上最も重要な作品群のひとつである。
- クラヴィーア練習曲集(全4巻、第1巻「パルティータ」BWV825‐BWV830、第2巻「フランス風序曲」BWV831及び「イタリア協奏曲」BWV971、第3巻「前奏曲とフーガ変ホ長調」BWV552、コラール編曲BWV669‐689及び「デュエット」BWV802‐805、第4巻「ゴルトベルク変奏曲」BWV988) - バッハが生前に出版した鍵盤作品集。第1巻、第2巻および第4巻は手鍵盤のための作品であるが、第3巻には足鍵盤つきのオルガン曲が多く含まれている。
その他器楽曲
旋律楽器のための無伴奏作品集には無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ、無伴奏チェロ組曲の2つがある(この他、無伴奏フルートのためのパルティータが1曲ある)。これらは、それぞれの楽器の能力の限界に迫って多声的に書かれた作品群であり、それぞれの楽器の演奏者にとっては聖典的な存在となっている。特に、無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番の終曲にあたる「シャコンヌ」は人気の高い作品で、オーケストラ用やピアノ用など、19世紀以降様々な編曲が行われている。
また、バッハは当時廃れつつあったリュートにも強い関心を示し、複数の楽曲(BWV 995-1000、1006a)を残した。ただし、近年の研究では、BWV 996などいくつかの作品は、ガット弦を張った鍵盤楽器ラウテンヴェルクのために書かれたと推定されている。これらの作品は、今日、20世紀に復活したバロックリュートで弾かれるほか、クラシックギター向けの編曲作品も広く演奏されている。
声楽曲
バッハはその音楽的経歴の大部分を教会音楽家として送り、宗教的声楽曲はバッハの作品群の中でも重要な位置を占める。特に、ライプツィヒ時代の初期数年間においては、毎日曜日の礼拝に合わせて年間50~60曲ほど必要となるカンタータをほぼ毎週作曲、上演するという、驚異的な活動を行った。
ちなみにバッハは、宗教曲の清書自筆譜の冒頭に「JJ」(羅:Jesu juva!=イエスよ、助けたまえ)と書き、最後に「SDG」(羅:Soli Deo Gloria!=ただ神のみに栄光を)と書き込むことを常としていた。
今日残されているのは、ドイツ語による約200曲の教会カンタータ(本来は5年分:約250曲で約50曲がすでに紛失)、2つの受難曲(3番目のマルコ受難曲のレチタティーヴォが紛失)と3つのオラトリオ、6曲のモテット、ラテン語によるマニフィカト1曲、小ミサ曲(ルーテルミサ)4曲と大ミサ曲1曲が主要なものである(ドイツ語作品では、ルター派の伝統に立脚したコラールが音楽的な基礎となっていることが多い)。
また、それとは別に、宗教的な題材によらない約20曲の世俗カンタータもある。目的は様々で、領主への表敬、結婚式や誕生日祝い、さらにコーヒー店での演奏会用の作品と見られるもの(『コーヒー・カンタータ』、BWV.211)もある。その中にはしばしばユーモアが滲み出ており、バッハの人間性にじかに触れるかのような楽しさが感じられる[53]。なお、テクストを取り替えること(パロディと呼ばれる)によって宗教的作品に転用されたものも存在する。
- マタイ受難曲 (Matthäuspassion) BWV244
- 古今の宗教音楽の最高峰のひとつとされ、2部全68曲(曲数は新バッハ全集 (NBA) の数え方による)からなる。1727年にライプツィヒにて初演された。後世、メンデルスゾーンによって取り上げられ、バッハを一般に再認識させるきっかけとなったと言われている。
- ミサ曲 ロ短調 (MESSE in h-moll) BWV232
- ミサ曲ロ短調は「バッハ合唱曲の最高傑作」と称されている。最初の2つの部分、キリエ(Kyrie )およびグローリア(Gloria ) は1733年に、サンクトゥス (Sanctus ) が1724年に書かれ、残り大半は1747年から49年にかけて既存作品を利用しつつ作曲された。最近の研究では、バッハが最後に完成させた曲とされる。
- マニフィカト BWV243
- ミサ曲ロ短調と同様、ラテン語の歌詞によっており、ニ長調を主調とする作品である。
特殊作品
バッハが特に晩年になってから手がけた様々な対位法的作品群が、一般に特殊作品として分類されている。音楽の捧げものBWV1079やフーガの技法BWV1080に代表される。この2つの作品は、いずれも1つの主題に基づいて作られており、フーガあるいはカノンの様々な様式が用いられている。
このほか特殊作品として、いくつかの単独のカノンや14のカノンBWV1087がある。カノン風変奏曲「高き御空より」BWV769もここに含まれるべきであるが、楽器指定が明確であるためオルガン曲として分類されている。
注釈
- ^ a b 当時の学校は第5級~最上級まである級の各級を、約2年で修了し、進級するものだった[3]。
- ^ 聖ミカエル教会付属の学校は二つあり、一つは北側にある騎士学院の貴族の子弟のための、もう一つが南側にある市民階級の子弟のための寄宿学校だった[5]。
- ^ バッハは、ラインケンのトリオ・ソナタ集『音楽の園』(1688年出版) のうち3曲をクラヴィーア用に編曲している[7]。音楽学者・樋口隆一は、この時期ににラインケンから直接楽譜を受け取った可能性も高いと指摘している[7]。
- ^ バッハは、カイザーの『マルコ受難曲』をヴァイマル時代とライプツィヒ時代の1726年に2度上演しており、やはりこの時期にカイザーから影響を受け、尊敬していた可能性が高い。[7]。
- ^ 樋口隆一は、当時演奏が堪能であったバッハが、騎士学院の貴族のダンスの伴奏も務め、その際に才能を見出したド・ラ・セルがツェレ宮廷に連れて行ったのではないかと推察している[7]。
- ^ ヨハン・アウグスティン・コベリウスというアイセンフェルス宮廷の楽師だった人物が最終的に採用されたが、これにはヴァイセンフェルス公の介入があったからだとされている[8]。
- ^ 7月3日以前に鑑定が行われたことが分かっている[10]。
- ^ 『トッカータとフーガ ニ短調』BWV565や、『コラール』BWV715, 722, 726, 729, 732, 738は、ブクステフーデから影響を受けた可能性が高い作品であるとされている[11]。
- ^ この頃に作曲された『結婚式クォドリベット』BWV524と、バッハ自身の結婚式を結びつけることもできるが、確証はないとされている[13]。
- ^ 音楽学者・皆川達夫は、バッハの作品の中でも特に宗教曲やオルガン曲には、過去の時代の作曲法や構成法の影響が強く見られると指摘している。また、過去の作曲法の影響が見られるのはバッハに限ったことではないと前置きをしつつも、同時代や後輩の作曲家の誰よりも、バッハは過去の音楽を受け入れて吸収することに「貪婪といえるほどに積極的」であったと述べている。それ故に、どの作品にも過去の伝統の一部を垣間見ることが可能だが、一方でそれがバッハの作品として結晶した途端に、その要素全てが「バッハ」そのものに変容してしまうと語っている。[50]。
- ^ モーツァルトは息子であるヨハン・クリスティアン・バッハの直接の弟子筋にあたる
- ^ ベートーヴェンの師弟関係上の系譜は、師のネーフェからヨハン・アダム・ヒラーを経てバッハの弟子の一人であるゴットフリート・アウグスト・ホミリウスにたどり着くことができる。[55]
- ^ 会話帖自体は、1824年7月分にしろ1825年7月分にしろ欠損していない。[59]
- ^ この時期、ホフマイスター社はベートーヴェン宛にバッハ作品全集の刊行の告知をしており、その返信。ベートーヴェンは4月に全集購入の申し込みを行った。[60]
出典
- ^ 礒山雅「バッハの生涯 - バッハ研究をめぐる諸問題」『教養としてのバッハ - 生涯・時代・音楽を学ぶ14講』礒山雅・久保田慶一・佐藤真一 編著、アルテスパブリッシング、2012年。
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- ^ 樋口 1985, pp. 22–23.
- ^ 平凡社 世界大百科事典(1974年版)4巻 オルガンの項目(バッハ以降)
- ^ ルイ・マルシャンを参照
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- ^ 大崎 2019, pp. 15, 22.
固有名詞の分類
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