フィルマー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/05 14:28 UTC 版)
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基本情報 | |
連邦州: | ヘッセン州 |
行政管区: | ギーセン行政管区 |
郡: | リムブルク=ヴァイルブルク郡 |
緯度経度: | 北緯50度23分29秒 東経08度11分31秒 / 北緯50.39139度 東経8.19194度 |
標高: | 海抜 142 m |
面積: | 43.10 km2 |
人口: | |
人口密度: | 156 人/km2 |
郵便番号: | 65606 |
市外局番: | 06482, 06483, 06474 |
ナンバープレート: | LM, WEL |
自治体コード: |
06 5 33 015 |
行政庁舎の住所: | Peter-Paul-Straße 30 65606 Villmar |
ウェブサイト: | www.marktflecken-villmar.de |
首長: | マティアス・ルプレーダー (Matthias Rubröder) |
郡内の位置 | |
地図 | |
フィルマー (ドイツ語: Villmar) は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州ギーセン行政管区のリムブルク=ヴァイルブルク郡に属す市場町である。この町は、いわゆる「ラーン大理石」の採掘、加工の中心地である。
地理
位置
フィルマーは、リムブルクの東約 10 km の、ヴェスターヴァルトとタウヌス山地の間のラーンタール(ラーン川の谷)に位置している。自然環境上、町域南西部はリムブルク盆地の東部(フィルマー盆地)を含む。そのあたりはほぼ平坦で、高度 160 - 180 m、幅 2 -3 km の西に開けた台地で、狭く曲がりくねったラーン川の谷は、約 50 m の深さに切れ込んでいる。温暖な気候と広く肥沃な黄土ローム質の土壌により、ここでは主に集約的な農耕に利用されている。その北側は、やや高い位置 (220 - 260 m) にヴァイルブルガー・ラーンタールやガウデルンバッハ台地のある森の豊かなヴァイルブルガー・ラーンタール地域で、ここでは点在する黄土の土地で農業が営まれている。南東部は、やはり深い森に覆われた東ヒンタータウヌス北西部(ラングヘッカー・ラーンタウヌス)へと上る。ここは遠くから望むことができるリムブルク盆地に向かう最も西の前承知としてフィルマラー・ガルゲンベルク (277 m) がある。町域の最高地点 (332 m) はラングヘッケ地区の南東に位置し、最低地点 (114 m) は西のルンケルとの町境のラーン川が形成している。
地質学
地質学上ラーン盆地に属すフィルマーはデボン紀中期の鉱物資源(銀、鉄鉱石、スレート、石灰岩)が豊かである。研磨可能な石灰石の塊(「ラーン大理石」と呼ばれる)はサンゴ礁由来の石灰岩で、特に経済的に重要である。建築資材としてはこのリーフ石灰岩の他に、「シャルシュタイン」と呼ばれる緑がかった輝緑岩が多く用いられた(たとえば、市壁、司祭館、古い建物地下倉庫など)。より新しい第三紀の堆積物は、これに比べて重要度が低く、ヴィルマラー・ガルゲンベルク地域では少量の砂や礫が散発的に産出するだけである。第三紀の火山活動は、ファルケンバッハ、ゼールバッハ、ヴァイヤー付近での玄武岩の産出をかつてもたらしたが、現在では採掘は中止されている。
隣接する市町村
フィルマーは、北西はルンケル、北東はヴァインバッハ、東はヴァイルミュンスター、南はゼルタースおよびブレヒェン、西はリムブルク・アン・デア・ラーンと境を接している(いずれもリムブルク=ヴァイルブルク郡)。
自治体の構成
この市場町は、アウメナウ、ファルケンバッハ、ラングヘック、ゼールバッハ、フィルマー、ヴァイヤーの各地区からなる。
歴史
首邑のフィルマーは、1053年に初めて記録されている。これは皇帝ハインリヒ3世がトリーアの聖マティアス修道院にフィルマー王領を寄進する文書である。特に重要なのは、この文書中に既に領邦君主の権利に匹敵する世俗の守護代官の権利が改竄されて組み込まれていることである。この修道院は、1154年にトリーア選帝侯ヒリンからフィルマーの教会に対する所有権を認められ、十分の一税納入を義務づけられた14の集落のリストを作成した。この中に現在この町の一部となっているゼールバッハ、アウメナウ、ヴァイヤーが記されている。おそらくこの年に、1054年にまで遡るオリジナル文書の改竄が行われ、代官権と司祭区の拡大、さらにそれに伴う十分の一税徴収範囲の拡大が行われたと考えられる。アウメナウ集落とヴァイヤー集落は8世紀にはすでに文書に記録されているが、ファルケンバッハとラングヘックの初出は13世紀および14世紀であった。しかし、他の文書から間接的に、独立したフィルマー教区は910年以前に成立していたことが推測される。地名のフィルマーは、この集落の起源がフランク時代以前であることを意味している。
1166年に、少し前にコブレンツから移り住んだトリーア選帝侯のミニステリアーレの一家が「フォン・フィルマー」家を初めて公式に名乗った。その後もこの家門には「フォン・コブレンツ」という表記がなされることもあったが、13世紀からはフィルマーにちなんだ名前が用いられた。この一門の紋章には赤-白の四分割または市松模様が用いられた。この家門は14世紀からハーダマルに分家が成立した。この家門はフィルマーおよびリムブルク周辺、モンタバウアー周辺、ラインガウのデルケンハイム城周辺およびヴェッテラウ内に所領を有していたことが証明されている。この家門は1428年に断絶した。
13世紀からイーゼンブルク家の伯が代官として現れた。その家臣にフィルマー家を名乗る者もいた。現在ルンケルの市区となっているアルフルトを含むフィルマー地域に対する支配権はその後ディーツ・ガウの伯に、1366年以後はツェント・アウメナウの権利継承者としてヴィート=ルンケル伯が有した。13世紀以降にはフィルマーの高権を得ようとするトリーア選帝侯の画策も証明されている。1346年、フィルマーはトリーア選帝侯バルドゥイン・フォン・ルクセンブルクの推薦により都市権を獲得した。これはフィルマーを支配下に取り込もうとするトリーア選帝侯の狙いと結びついていた。しかし、1359年のトリーア選帝侯によるフィルマー征服は防衛施設を破壊したにもかかわらず最終的に成功しなかった。これはその法的根拠がなかったためであった。フィルマー代官との紛争は、フィリップ・フォン・イーゼンブルクがフィルマー近郊に建設したグレーテンシュタイン城が、1360年にトリーアの司教補佐クーノ2世フォン・ファルケンシュタインによって破壊されたことでピークに達した。15世紀から16世紀にはさらにゾルムス家がこの地域を支配した。1536年に町の大部分が火災により失われた。紛糾していた領邦の所属については、聖マティアス修道院の合意を得て、1565年にイーゼンブルク=ビュディング家およびゾルムス=ミュンツェンベルク家が 14,000フランクフルト・グルデンで代官権をトリーア選帝侯に売却したことで解決した。トリーア選帝侯はさらに、ヴィート=ルンケル伯がフィルマー=アルフルト地域の高権を放棄し、この地域をトリーア選帝侯の行政管轄下に置くことを、1596年に伯との間で合意した。これは宗教上の所属に関して次の結果をもたらした。すなわち、フィルマー(およびアルフルト)が宗教上の背景および世俗の高権において宗教改革の影響を受けなかったのに対して、ヴィート伯領のゼールバッハ、ファルケンバッハ、アウメナウ、ヴァイヤーは、1562年からまずルター派に、1587年/1588年からカルヴァン主義に改宗した。ただし地主としての修道院の収入は、教会十分の一税を含め、1803年まで影響を受けることはなかった。
選帝侯領および神聖ローマ帝国の解体後、フィルマーは1806年から新たに成立したナッサウ公国に属した。1848年の解放運動は、フィルマーのカトリック信者が再び何十年にもわたってマリア・ヒルフ・ベーゼリヒ巡礼礼拝堂への巡礼を行い、そこで力強く自らの信仰を公言する権利をもたらした[2]。この公国は1866年にプロイセン王国に併合された。第二次世界大戦後、フィルマーは1946年に新設されたヘッセン州の一部となった。
この町は、1861年2月18日の壊滅的な火災によって荒廃した。ナッサウ火災保険金庫の見積もりによれば、被害額は 117,175グルデンで、これは1861年の公国全体の被害額の 2/3 に相当した[3]。
1862年に新たに建設されたラーンタール鉄道のフィルマー駅が開業した。しかし駅はラーン川の対岸にあり、フェリーやボートを使わなければ往来できなかった。すでに何世紀も前から何度も橋の建設が必要とされていた。多くの大理石加工業者がラーン川の対岸、駅の近くで営業していた。同じく19世紀の川の浚渫により、それまでフィルマーの農民が農場へ行き来するのに使っていた渡渉地が破壊された。1886年に議会は橋の建設を決定した。しかし建設工事が始まったのは1894年になってからであった。翌年11月に橋は開通した。1944年12月12日、この橋を狙った連合国軍の空爆がわずかに外れ、橋ではなく旅館を破壊した。しかし、おそらく実際の攻撃目標は、ラーンタール橋であった。
1945年6月23日、故郷を逐われた人々の第一陣がフィルマーに現れた。1946年には、以前国防軍が「ユーバー・ラーン」採石場に造らせた兵舎に約500人の難民が一時的に収容された。収容所の責任者に任命されたリムブルク郡当局のアウグスト・ファルクは、1933年以前にフィルマーの町長を務めていた人物であった。1946年2月8日に大規模な輸送手段によりヴァイルブルクに到着した1,200人のズデーテン地方からの難民の一部がこの収容所に収容された。この年の12月、この収容所に収容されていたのは約50人であった。遅くとも1947年1月以降、この収容所は利用されなくなっていた。フィルマー自体は、戦後約550人の難民を受け容れた。
地域再編
ヘッセン州の地域再編に伴い、フィルマー、ファルケンバッハ、ラングヘッケ、ゼールバッハが1970年12月31日に自由意思に基づいて合併し、新たな自治体フィルマーが形成された[4]。1971年2月1日、フィルマーはされにアウメナウと合併し、新たな自治体フィルマーに再編された[5]。1971年12月31日にヴァイヤー(当時はオーバーラーン郡の独立した町村であった)がフィルマーに合併した[6]。ヴァイヤーは2002年に「マルクトフレッケン」(市場町)の呼称権をフィルマーに譲渡した。ヘッセン自治体法に基づくオルツベツィルク(管理地区)は設けられなかった。
領邦・行政体の変遷
以下のリストは、フィルマーの属した領邦および行政体を概観するものである[7][8]。
- 1053年以前: 神聖ローマ帝国フィルマー王領(東フランク帝国直轄地)
- 1053年以降: 神聖ローマ帝国ラーンガウの聖マティアス修道院(トリーア)の所領
- 1596年以降: 神聖ローマ帝国トリーア選帝侯領、ウンテレス・エルツシュティフト、アムト・フィルマー(後にアムト・リムブルク)
- 1803年依然: 神聖ローマ帝国トリーア選帝侯領、ウンテレス・エルツシュティフト、アムト・リムブルク、ゲリヒト・フィルマー
- 1803年以降: 神聖ローマ帝国ナッサウ=ヴァイルブルク家(帝国代表者会議主要決議による)アムト・リムブルク
- 1806年以降: ナッサウ公国アムト・リムブルク
- 1816年以降: ドイツ連邦ナッサウ公国アムト・ルンケル
- 1849年以降: ドイツ連邦ナッサウ公国クライスアムト・リムブルク
- 1854年以降: ドイツ連邦ナッサウ公国アムト・ルンケル
- 1867年以降: 北ドイツ連邦プロイセン王国ヘッセン=ナッサウ州ヴィースバーデン県オーバーラーン郡
- 1871年以降: ドイツ国プロイセン王国ヘッセン=ナッサウ州ヴィースバーデン県オーバーラーン郡
- 1918年以降: ドイツ国プロイセン自由州ヘッセン=ナッサウ州ヴィースバーデン県オーバーラーン郡
- 1944年以降: ドイツ国プロイセン自由州ナッサウ州ヴィースバーデン県オーバーラーン郡
- 1945年以降: アメリカ管理地区グロース=ヘッセン、ヴィースバーデン行政管区オーバーラーン郡
- 1949年以降: ドイツ連邦共和国ヘッセン州ヴィースバーデン行政管区オーバーラーン郡
- 1968年以降: ドイツ連邦共和国ヘッセン州ダルムシュタット行政管区オーバーラーン郡
- 1974年以降: ドイツ連邦共和国ヘッセン州ダルムシュタット行政管区リムブルク=ヴァイルブルク郡
- 1981年以降: ドイツ連邦共和国ヘッセン州ギーセン行政管区リムブルク=ヴァイルブルク郡
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- ^ Bevölkerungsstand am 31.12.2019
- ^ Franz-Josef Sehr (2016). “250 Jahre Wallfahrtskapelle Maria Hilf Beselich”. Jahrbuch für den Kreis Limburg-Weilburg 2017. Der Kreisausschuss des Landkreises Limburg-Weilburg. pp. 137–141. ISBN 978-3927006546
- ^ Herzogtum Nassau, ed (1862). “Ausschreibung der Brandassecuranzbeiträge für das Jahr 1861”. Verordnungsblatt des Herzogthums Nassau. Wiesbaden. p. 45
- ^ Der Hessische Minister des Inneren, ed. (1971), “Zusammenschluss von Gemeinden zur Gemeinde „Villmar“, Oberlahnkreis vom 6. Januar 1971”, Staatsanzeiger für das Land Hessen (4): 140
- ^ Der Hessische Minister des Inneren, ed. (1971), “Gemeindegebietsreform: Zusammenschlüssen und Eingliederungen von Gemeinden vom 20. Januar 1971”, Staatsanzeiger für das Land Hessen (6): 248
- ^ Statistisches Bundesamt, ed (1983). Historisches Gemeindeverzeichnis für die Bundesrepublik Deutschland. Namens-, Grenz- und Schlüsselnummernänderungen bei Gemeinden, Kreisen und Regierungsbezirken vom 27.5.1970 bis 31.12.1982. Stuttgart/Mainz: W. Kohlhammer. p. 373. ISBN 978-3-17-003263-7
- ^ a b “Historisches Ortslexikon : Erweiterte Suche : LAGIS Hessen - Villmar”. 2020年12月2日閲覧。
- ^ Michael Rademacher. “Deutsche Verwaltungsgeschichte von der Reichseinigung 1871 bis zur Wiedervereinigung 1990. Land Hessen”. 2020年12月2日閲覧。
- ^ “Zensus 2011 - Bevölkerung nach Staatsangehörigkeitsgruppen”. 2020年12月2日閲覧。
- ^ “Zensus 2011 - Gesamtzahl der privaten Haushalte (nach Familien)”. 2020年12月2日閲覧。
- ^ “Zensus 2011 - Bevölkerung nach Geschlecht und Religion”. 2020年12月2日閲覧。
- ^ Der Hessische Minister des Inneren, ed. (1970), “Genehmigung eines Wappens und einer Flagge der Gemeinde Villmar, Oberlahnkreis vom 12. Juni 1970”, Staatsanzeiger für das Land Hessen (26): 1301
- ^ Der Hessische Minister des Inneren, ed. (1983), “Genehmigung eines Wappens und einer Flagge der Gemeinde Villmar, Landkreis Limburg-Weilburg vom 12. Juli 1983”, Staatsanzeiger für das Land Hessen (31): 1555
- ^ “Partnerschaft Grulich: Marktflecken Villmar”. 2020年12月2日閲覧。
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