ハプスブルク=ロートリンゲン家 家系の主な系統

ハプスブルク=ロートリンゲン家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/30 09:20 UTC 版)

家系の主な系統

フランツ・シュテファンの弟カール・アレクサンダー公子はマリア・テレジアの妹マリア・アンナと結婚している(二重結婚)が、兄姉夫婦の子孫が大いに繁栄したのと対照的に、こちらは子孫を残せなかった。

フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの間には5人の男子がいたが、次男カール・ヨーゼフは成人に達せずに早世し、長男ヨーゼフ2世と五男マクシミリアン・フランツには子供がなかったため、三男レオポルト2世の系統と四男フェルディナントの系統のみが家系として継続した。フェルディナントの系統は19世紀に断絶しており、現存する系統はいずれもレオポルト2世の男系子孫である。

オーストリア皇帝家

ハプスブルク=ロートリンゲン家の人々(1860年頃)。手前、右側、椅子に座るシルクハットの男性がフランツ・カール大公、中央の女性がゾフィー大公妃、右の子どもを抱えた女性がエリーザベト皇后、その後ろの帽子に髭の人物が皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、その右隣りのあごひげの人物がその次弟マクシミリアン大公、その右隣の女性がその妃シャルロッテ、その隣りが末弟ルートヴィヒ・ヴィクトル大公、右端の人物が三弟カール・ルートヴィヒ大公

ハプスブルク=ロートリンゲン家の宗家にあたる。神聖ローマ皇帝オーストリア大公の他にハンガリー王ボヘミア王も兼ねていた。神聖ローマ帝国は1806年に解体し、フランツ2世は帝位を降りたが、これに先立つ1804年からオーストリア皇帝フランツ1世を称しており、以後はこの皇帝位がオーストリア=ハンガリー帝国の滅亡まで継承された。これらの帝位および王位はフランツ・シュテファンとマリア・テレジアの夫妻から最後のカール1世まで7代にわたって継承されたが、直系継承されたのは3度だけである。

フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの長男ヨーゼフ2世は父から帝位を、母からオーストリア大公位およびハンガリーとボヘミアの王位を継承したが、子供がなく、トスカーナ大公位を継承していた弟レオポルト2世が代わって帝位および王位に就いた。レオポルト2世からフランツ2世/1世フェルディナント1世までは直系継承が続いたが、子供のないフェルディナント1世が1848年3月革命で退位すると、弟フランツ・カール大公(帝位を辞退)の長男フランツ・ヨーゼフ1世が即位した。なお、フランツ・ヨーゼフの弟マクシミリアンメキシコ帝国皇帝となったが、メキシコの自由主義勢力によって銃殺刑に処せられた。

フランツ・ヨーゼフ1世の下、1867年オーストリア帝国オーストリア=ハンガリー二重帝国に再編される。オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねる点はそれまでと同様であったが、軍事・外交・財政を除いてはオーストリアとハンガリーの2つの政府が独自の政策を行うという体制であった。フランツ・ヨーゼフは唯一の息子であった皇太子ルドルフの死後、甥のフランツ・フェルディナント大公を皇位継承者としたが、1914年サラエヴォ事件で暗殺され、これがきっかけとなって第一次世界大戦が勃発する。大戦中にフランツ・ヨーゼフは死去し、フランツ・フェルディナントの甥カール1世が帝位を継ぐが、大戦末期の1918年に帝国は滅亡し、オーストリア共和国が成立するとともに、ハンガリーチェコスロヴァキアを始めとする多くの国々が独立した。カール1世はハプスブルク法を拒絶して亡命し、1922年に病死した。

6歳足らずで皇太子の地位を失ったカール1世の長男オットーは、20世紀の終わりにドイツ選出の欧州議会議員を務めた。オットーは2011年に98歳で死去したが、ハプスブルク=ロートリンゲン家の家長の座は2006年に高齢を理由として長男カールに譲っている。カールも欧州議会議員を務めたが、こちらはオーストリア選出である。

歴代君主

名前 神聖ローマ皇帝 オーストリア皇帝 オーストリア大公 ハンガリー王 ボヘミア王 その他
フランツ1世 1745年 -
1765年
ロレーヌ公(譲位)
トスカーナ大公
チェシン公
マリア・テレジア 1740年 -
1780年
1740年 -
1780年
1743年 -
1780年
パルマ女公(譲位)
ヨーゼフ2世 1765年 -
1790年
1780年 -
1790年
1780年 -
1790年
1780年 -
1790年
レオポルト2世 1790年 -
1792年
1790年 -
1792年
1790年 -
1792年
1790年 -
1792年
トスカーナ大公(譲位)
フランツ2世/
フランツ1世
1792年 -
1806年
1804年 -
1835年
1792年 -
1835年
1792年 -
1835年
1792年 -
1835年
フェルディナント1世 1835年 -
1848年
1835年 -
1848年
1835年 -
1848年
1835年 -
1848年
フランツ・ヨーゼフ1世 1848年 -
1916年
1848年 -
1916年
1848年 -
1916年
1848年 -
1916年
カール1世 1916年 -
1918年
1916年 -
1918年
1916年 -
1918年
1916年 -
1918年

トスカーナ大公家

トスカーナ大公国は元来メディチ家が統治していたが、1737年に同家が断絶するとフランツ・シュテファンが大公フランチェスコ2世として継承した。しかしトスカーナはハプスブルク家の本領とは独立して統治される(本領を治める当主がトスカーナ大公を兼ねない)ことになり、フランツ・シュテファンから次男レオポルト2世へ、レオポルトが帝位を継いだ後はその次男フェルディナンド3世へと大公位が継承された。フェルディナンド3世をもってトスカーナ大公家(ハプスブルク=トスカーナ家)の始まりとする。

歴代の大公は良きトスカーナ人たろうと努めたが、それでもリソルジメントの波には勝てず、フェルディナンド4世1860年に廃位され、住民投票の結果、サルデーニャ王国へ併合されて大公国は消滅した。大公国の首都フィレンツェ統一イタリア政府の暫定的首都になった。トスカーナ大公家はその後、オーストリアの宗家を頼ってオーストリア貴族として存続し、家系は帝国の滅亡後も現在まで続いている。

歴代君主

モデナ公家

モデナ公国は元来エステ家が統治していたが、1803年エルコレ3世が男子を残すことなく没して断絶した。エルコレ3世はフランツ・シュテファンの四男フェルディナント大公を相続人に指名し、また娘マリーア・ベアトリーチェ・デステと結婚させていた。フェルディナントはオーストリア=エステ大公を称し、新たなモデナ公家としてオーストリア=エステ家を興すが、ナポレオン戦争のさなかにあって公位を継ぐことができないまま1806年に没し、息子フランチェスコ4世が1814年に再興されたモデナ公国の公位に就いた。しかしモデナ公国もリソルジメントの中、1860年にサルデーニャ王国に併合された。

公国を追われたフランチェスコ5世には嗣子がなく、名目上のものとなったモデナ公位はフランツ・フェルディナント大公が継承した。ただし、フランツ・フェルディナントはオーストリア=エステ家の血を引いておらず、この継承はそれを根拠としないものだった。フランツ・フェルディナントが暗殺された後は甥カール1世へ、カールの皇帝即位後は次男ローベルトへと公位は継承された。なお、カール1世は上記のフェルディナント大公とマリーア・ベアトリーチェ夫妻の長女の玄孫にあたるツィタと結婚したため、ローベルト以降の子孫はオーストリア=エステ家との血統上の繋がりがある。

現在のモデナ公、オーストリア=エステ大公ローレンツはローベルトの息子であるが、ベルギー王女アストリッドと結婚して王室の一員となっており、ベルギー王子の称号も有する。

モデナ公国の君主

チェシン公家

シレジア南東部にあったチェシン公国(ドイツ語ではテシェン公国)は、ピャスト家支族によって治められていたが、女公エルジュビェタ・ルクレツィアが1653年に没した後、ボヘミア王としてのハプスブルク家君主の支配下に入った。しかし、皇帝カール6世の時代にロレーヌ公レオポルトに譲られ、レオポルトの死後は息子フランツ・シュテファンが受け継いだ。

フランツ・シュテファンが皇帝位に就いたことで、チェシン公位は再び皇帝位と統合されるが、トスカーナと同様にハプスブルク家の本領とは別に相続されることになり、フランツの死後は長男ヨーゼフ2世を経てその妹マリア・クリスティーナが夫のザクセン公子アルベルト・カジミールと共同で受け継いだ。夫妻には実子がなかったため、マリア・クリスティーナの弟である皇帝レオポルト2世の三男カール大公を養子として公国を相続させた。カールは兄であるオーストリア皇帝フランツ1世の治世に、オーストリア軍司令官としてフランス革命戦争およびナポレオン戦争において活躍したことで知られるが、以後カールを祖とする家系が新たなチェシン公家(ハプスブルク=テシェン家)となった。

この家系からは第一次世界大戦時にオーストリア=ハンガリー陸軍の最高司令官を務めたフリードリヒ大公ポーランド国王候補にもなったカール・シュテファン大公両シチリア王フェルディナンド2世マリーア・テレーザスペイン王アルフォンソ12世マリア・クリスティーナなどが出ている。

チェシン公国は第一次世界大戦後にチェコスロヴァキアポーランド第二共和国の間で分割されて消滅した。チェシン公家の血筋はその後も続いている。

その他

皇帝レオポルト2世の七男ヨーゼフ・アントン大公は、早世した兄アレクサンダー・レオポルト大公に代わって1796年にハンガリー副王(もしくはハンガリー宮中伯英語版nádor)の地位に就いた。この家系もまたハプスブルク=ロートリンゲン家の有力な分家の一つとなっており、ベルギー王レオポルド2世マリー=アンリエット、第一次世界大戦後に新たなハンガリー王国の国王に一時擁立されたヨーゼフ・アウグスト大公などが出ている。

主要な家系としては他に、レオポルト2世の十男でロンバルド=ヴェネト王国の副王となったライナー・ヨーゼフ大公の家系があり、サルデーニャ王、のち初代イタリア王となるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の王妃マリーア・アデライデなどが出ている。

貴賤結婚のためハプスブルク=ロートリンゲンの家名を許されなかった家系としては、レオポルト2世の九男で「アルプス王」と呼ばれたヨハン大公と平民の娘アンナ・プロッフルの間の息子の家系であるメラン伯爵家ドイツ語版、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公と伯爵令嬢ゾフィー・ホテクの間の子供の家系であるホーエンベルク公爵家英語版が知られる。


注釈

  1. ^ ただし事実上ハプスブルク家からの連続
  2. ^ 数え方によって、現代のハプスブルク=ロートリンゲン一門の総人数は大きく変動する。ヘルゲ・レインドル(Helge Reindl)によると、2014年時点で600~800人である[5]。また、彼によるとオーストリア在住の一門は100~150人だという[5]レオポルト・アルテンブルクによると、分家であるアルテンブルク家も肥大化しており、2018年の集まりには約150人が参加したという[6]
  3. ^ ホーエンベルク公爵家英語版のように帝政時代に貴賤結婚した家系については対象外となっている。

出典

  1. ^ “Felavatták IV. Károly szobrát Budapesten”. Origo.huハンガリー語版. (2016年11月28日). https://www.origo.hu/itthon/20161128-kormany-magyarsag-semjen-iv-karoly-minden-kockazatot-vallalt-a-bekeert.html 2019年10月5日閲覧。 
  2. ^ Horst Thoren (2018年10月18日). “Karl von Habsburg: "Die Monarchie ist nicht von gestern"”. Rheinische Post英語版. https://rp-online.de/politik/ausland/karl-von-habsburg-die-monarchie-ist-nicht-von-gestern_aid-33825809 2019年10月5日閲覧。 
  3. ^ a b Szabó Botond Zsolt (2019年3月30日). “„Magyar vagyok, nem osztrák” – Habsburg György Európáról, magyarságról, habsburgságról”. Mandinerハンガリー語版. https://mandiner.hu/cikk/20190330_habsburg_gyorgy 2019年10月5日閲覧。 
  4. ^ a b c Bernhard Ecker (2018年4月). “100 Jahre Republik: Die neuen Habsburger”. トレンド (雑誌)ドイツ語版. https://www.trend.at/wirtschaft/jahre-republik-habsburger-10459278 2019年3月3日閲覧。 
  5. ^ a b Teresa Schaur-Wünsch (2014年7月18日). “Salzkammergut: Hochzeit in der Kaiservilla”. Die Presseドイツ語版. https://www.diepresse.com/3840991/salzkammergut-hochzeit-in-der-kaiservilla 2020年2月1日閲覧。 
  6. ^ Ann Kathrin Hermes (2019年3月20日). “"Bei Kaiser Franz Joseph hat der Narr gefehlt"”. news.at. https://www.news.at/a/habsburger-kaiser-franz-joseph-narr-10688419 2020年2月1日閲覧。 
  7. ^ ““The 21st-century Habsburg mission”. The Catholic Herald英語版. (2016年11月16日). http://www.catholicherald.co.uk/issues/november-18th-2016/the-21st-century-habsburg-mission/ 2018年11月6日閲覧。 
  8. ^ https://www.youtube.com/watch?v=WGP8M7qH0vk&feature=youtu.be
  9. ^ Thomas Wehrli (2014年6月30日). “Kaiser ist kein erstrebenswerter Beruf”. バーゼル新聞ドイツ語版. https://www.bazonline.ch/wissen/geschichte/kaiser-ist-kein-erstrebenswerter-beruf/story/16219297 2019年10月5日閲覧。 
  10. ^ a b c Boris Kálnoky (2016年12月30日). “Ungarn pflegt habsburgisches Erbe pompöser als Österreich”. ディ・ヴェルト. https://www.welt.de/politik/ausland/article160694717/Ungarn-pflegt-habsburgisches-Erbe-pompoeser-als-Oesterreich.html 2019年10月5日閲覧。 
  11. ^ “A Várba költöztetik Habsburg Ottó hagyatékát”. Index.hu. (2019年8月7日). https://index.hu/kulfold/ep/2019/07/08/a_varba_koltoztetik_habsburg_otto_hagyatekat/ 2019年10月5日閲覧。 


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