ブルボン家との同盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 04:05 UTC 版)
「ハプスブルク=ロートリンゲン家」の記事における「ブルボン家との同盟」の解説
ハプスブルク家とフランス王家は長年にわたり敵対関係にあったが、マリア・テレジアの下で「外交革命」と呼ばれる外交方針の転換がなされ、両者の間に同盟関係が成立した。その一環として、フランツとマリア・テレジアの子女と、フランス・スペイン・イタリアのブルボン家諸家の間で政略結婚が頻繁に行われた。ハプスブルク・ブルボンの両家は古くから近親婚を重ねており、またブルボン家はハプスブルク家ともロレーヌ家とも色濃い血縁関係があったことから、両家の間でさらに近親婚を繰り返したことで早世したり体に障害を持った人物が続出した。 また、ブルボン家との関係の重視は反面でドイツ諸邦との関係の弱体化につながった。ハプスブルク家の皇帝は大国フランスに対抗する存在としてドイツ諸邦(これにはかつてのロレーヌ公国も含まれる)から支持されてきた一面があり、両大国が手を結んだことで諸侯は危機感を募らせた。それはやがてプロイセンに対するドイツ諸侯の支持を相対的に高め、神聖ローマ帝国の崩壊に始まり、普墺戦争を経て、ドイツ統一の主導権をプロイセンに奪われる結果につながった。さらに、南北イタリアのブルボン家との結びつきもハプスブルク家の北イタリア支配の維持にはつながらず、両家はともにサルデーニャ王国によるイタリア統一によってその座を追われた。
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