ブルボン家による南イタリア統治の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 07:15 UTC 版)
「シチリア・ブルボン朝」の記事における「ブルボン家による南イタリア統治の始まり」の解説
ハプスブルク朝断絶後、フェリペ5世が即位してスペイン・ブルボン朝(ボルボン朝)が成立するが、スペイン継承戦争の結果、ナポリとシチリアはオーストリア・ハプスブルク家に奪われた。 フェリペ5世の後妻エリザベッタ・ファルネーゼは失地回復を目指し、息子であるパルマ公カルロは1733年に勃発したポーランド継承戦争に乗じてナポリ・シチリアを制圧することに成功した。1738年のウィーン条約でカルロはナポリ・シチリアの所有権を認められ、ナポリ王カルロ7世及びシチリア王カルロ5世として即位したが、その際に「両シチリア王」と名乗っている。 とはいえ2カ国は統一された訳ではなく、宮廷及び政府機関はもっぱらナポリに置かれ、シチリアには総督が派遣されることになった。カルロはピサ大学の元教授ベルナルド・タヌッチ(英語版)の補佐を得て国王主催の国務会議を開き、教会、司法、商業、税制等の諸改革を行ったが、保守派の抵抗に遭い、成功しなかった。やがて、異母兄のスペイン王フェルナンド6世が嗣子を残さずに1759年に死去すると、カルロは8歳の三男フェルディナンドに両王位を譲り、自身はスペイン王カルロ3世として即位した。通常、フェルディナンドをもってブルボン(ボルボーネ)=シチリア家の始まりとする。 フェルディナンドの即位後も、実権はタヌッチが握ったままであった。タヌッチは1764年の飢饉への対処、イエズス会の解体とその土地の配分、世俗の国立学校の設置等の功績を残したが、フェルディナンドに代わって政治を掌握した王妃マリア・カロリーナに疎まれて1776年に罷免される。その後、マリア・カロリーナは啓蒙主義者たちを加えた財政最高評議会を設置したり、開明派貴族のドメーニコ・カラッチョをシチリア総督にして諸改革を行った。
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