ブルボン公の執政と結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 08:58 UTC 版)
「ルイ15世 (フランス王)」の記事における「ブルボン公の執政と結婚」の解説
1725年2月にルイ15世が体調を崩し、2日程病床に伏した。若い国王の健康に王統の危機を心配したブルボン公は翌3月に、まだ幼く子を生むことが望めないスペイン王女マリアナ・ビクトリアとの婚約解消を決定する。マリアナ・ビクトリアはスペインに帰され、このためスペインとの関係が一時悪化した。代わって、ヨーロッパ諸国の中から出産可能な年齢の王女を選ぶことになった。なお、マリアナ・ビクトリアは後にポルトガル国王ジョゼ1世に嫁いでいる。 最終的に王妃は元ポーランド国王スタニスワフ・レシチニスキの娘で21歳のマリー・レクザンスカに決まる。スタニスワフは王位を失い国を追われた身であり、不釣り合いな結婚と見なされて国民の失望を買った。婚儀は1725年9月に行われた。ルイ15世は王妃マリー・レクザンスカを熱愛し、王妃はほぼ毎年のように妊娠出産し、11人もの子を生むことになる。 宰相ブルボン公は失政続きで、穀物の価格が高騰し景気が悪くなり、国民の評判がひどく悪くなった。1726年、16歳になったルイ15世はブルボン公を罷免し、かつての養育係フルーリー枢機卿を事実上の宰相とした。
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