ブルボン・ハプスブルク両家の確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/08 06:00 UTC 版)
「外交革命」の記事における「ブルボン・ハプスブルク両家の確執」の解説
オーストリアとフランスの対立は、15世紀にさかのぼる。ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世がブルゴーニュの後継者マリーと結婚し、フランスを撃破したこと。またフランス側がマリーの死後フランス王ルイ11世の扇動によりブルゴーニュ公としての権限を失ったマクシミリアンの娘マルガレーテ(マルグリット)を誘拐同然にシャルル8世の王妃に据えておきながら、マクシミリアン1世のアンヌ・ド・ブルターニュとの再婚を阻みアンヌと結婚した上、マルグリットを人質として留め置いたことなどから、両国の確執が始まっている。あるいはマリーの父シャルル突進公とルイ11世、更にはヴァロワ・ブルゴーニュ家と仏王家との対立を婿入りしたハプスブルク家が受け継いだとも言える。 15世紀末葉から16世紀にかけては、イタリア戦争においてハプスブルク家のカール5世とヴァロワ家のフランソワ1世が対立している。16世紀はじめ、カール5世がスペイン王カルロスとしてハプスブルク家から迎えられ、スペイン・ハプスブルク朝が始まると、フランスとしては東西のハプスブルク勢力から挟撃される状態となって、長いあいだ両家は何重にも婚姻を重ねつつも宿敵の関係にあった。フランスがブルボン朝に交代してからも、17世紀後半から18世紀初頭にかけてのルイ14世の侵略戦争もハプスブルク家領を脅かしていた。 17世紀前半の三十年戦争でも、フランスは旧教国でありながら反ハプスブルクの新教諸勢力とむすんだ。また、18世紀のスペイン継承戦争、ポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争でも両国はたがいに敵同士として戦った。
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