マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ_(1718-1744)とは? わかりやすく解説

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マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ (1718-1744)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 03:51 UTC 版)

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マリア・アンナ
Maria Anna
ハプスブルク家

出生 1718年9月18日
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国ウィーン
死去 (1744-12-16) 1744年12月16日(26歳没)
オーストリア領ネーデルラントブリュッセル
埋葬 神聖ローマ帝国
オーストリア大公国ウィーンカプツィーナー納骨堂
配偶者 カール・アレクサンダー
父親 神聖ローマ皇帝カール6世
母親 エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル
役職 オーストリア領ネーデルラント総督
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マリア・アンナ・エレオノーレ・ヴィルヘルミナ・ヨーゼファ・フォン・ハプスブルクドイツ語: Maria Anna Eleonore Wilhelmina Josepha von Habsburg, 1718年9月18日 - 1744年12月16日)は、神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの次女。女帝マリア・テレジアの妹。

生涯

ウィーンで生まれた。カール6世には皇后との間に4人の子が生まれたが、成人したのはマリア・テレジアとマリア・アンナだけだった。2人はカイザーホーフ宮殿で育った。

成長すると、マリア・アンナはロートリンゲン公子カール・アレクサンダーロートリンゲン公レオポルトの子)と恋に落ちた。カール・アレクサンダーの兄は、マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファン(のちの皇帝フランツ1世)であった。カール6世の政治的判断もあり、2人の恋が成就するには多くの障害があった。

父カールの死後しばらくして、マリア・テレジアは結婚の許しを妹に与えた。2人は1744年1月、アウグスティーナー教会で挙式した。同年、マリア・アンナ夫妻は叔母マリア・エリーザベトの後任として(正確には叔母の死後に総督を務めていたハラハ=ローラウ伯の後任)、オーストリア領ネーデルラントの総督に任じられてブリュッセルへ赴任していった。

当時はオーストリア継承戦争のさなかで、カール・アレクサンダーがオーストリアの将軍としてプロイセン王国との戦闘に出征している間、第1子を懐妊中のマリア・アンナはブリュッセルに残った。1744年12月16日、マリア・アンナは子供を死産し、自らも急死した。母子はウィーンの帝室納骨堂に葬られた。

カール・アレクサンダーはマリア・アンナの死後も総督としてネーデルラントに留まったが再婚せず、独身を貫き通して生涯を終えた。

マリア・アンナ
先代:
フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハラハ
オーストリア領ネーデルラント総督
1744年
次代:
カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン



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