ディスカバー・ジャパン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/27 14:48 UTC 版)
経緯
背景
国鉄は、1964年10月1日に東海道新幹線を完成させて[1]東京 - 大阪間の輸送力を強化し、4年後の1968年10月1日のダイヤ改正(ヨンサントオ)で在来線の輸送網強化を一応完成させた。1970年3月から9月に開催された日本万国博覧会(大阪万博)では、この国鉄輸送網が活躍して大量の乗客を輸送した[2]。大阪万博は今まで団体旅行しか経験しなかった多数の日本国民の目を、個人旅行に向けさせるきっかけとなった。国鉄は1970年10月に万博終了後の旅客確保対策として[3]、個人旅行拡大キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」を開始した。
キャンペーン開始
キャンペーンの計画が立てられ始めたのは開始の約1年前、すなわち大阪万博の約半年前だという[4]。
そして、キャンペーンは万博終了の1ヵ月後の10月14日(鉄道の日)から始まった[5]。従来のキャンペーンは特定地域に絞ったものが多かったが、「ディスカバー・ジャパン」は「日本を発見し、自分自身を再発見する」をコンセプトに、全国的に進められた。このキャンペーンは広告代理店の電通が全面的にプロデュースを行い、副題も含めたキャンペーン名も電通の創案による。当時電通でこのキャンペーンを企画した藤岡和賀夫によると、コンセプトとしては「ディスカバー・マイセルフ」であったが、「マイセルフ」の部分の表現として「美しい日本と私」という副題が出てきたという[6]。このフレーズが、川端康成のノーベル文学賞受賞記念講演「美しい日本の私」に似ていることに気づいた藤岡は、川端にキャンペーンでこのフレーズを使うことを打診したところ、快諾された上にポスターに使う揮毫までもらうことができた[6]。また当初副題は三島由紀夫に依頼したが断られたという[6]。
藤岡の回想では、開始当初このキャンペーンの名前に関しては「国鉄がなぜ英語を使うんだ」といった非難や、アメリカで1967年に実施された「ディスカバー・アメリカ」という国内旅行を促すキャンペーンの二番煎じなどといった批判があったという[6]。
このキャンペーンは 車内や駅のポスター以外に種々のメディアでも宣伝された。駅スタンプはそれまで特定観光地にしか設置されていなかったが、このとき設置駅を1400に増やした[5]。その他にも機関紙の発行、新聞での特集記事、テレビ番組の設定などが、キャンペーンを盛り上げるために実行された。
主要30駅(上野駅や東京駅など)の駅前には、3年間の期間限定で「ディスカバー・ジャパン・タワー」が設置された[7]。日立製作所のカラーテレビキドカラーの宣伝列車「日立ポンパ号」は、「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーンと連動した。
テレビ番組
キャンペーン開始と同時の10月に、国鉄提供によるテレビ紀行番組『遠くへ行きたい』が始まった。これは永六輔が一人で日本全国を旅して、各土地の名所紹介や住民とのふれあいをテーマにした番組だった[8]。永六輔が作詞した同名の主題曲とともに当時の国民の旅行への憧憬をさそった。
ミニ周遊券の設定
それまでの周遊券は「周遊指定地を2箇所以上回るオーダーメイド版:有効期間1か月」、「北海道や九州などの広域をまわるレディメイド版:有効期間最大20日、名称『一般用均一周遊乗車券』」等があった。しかしオーダーメイド版は条件が複雑で一般客向きではなく、またレディメイド版は範囲が大きすぎて小旅行には向かないものであった。「ディスカバー・ジャパン」開始と同時に、レディメイド版の周遊範囲を限定して、安価・短期間の旅行に適したミニ周遊券が設定された。同時に従来のレディメイド版はワイド周遊券と改称された。
キャンペーンの推移
1972年[9]の山陽新幹線岡山開業、1975年の同線博多開業と国鉄の新幹線網が延びていき、在来線においても1972年にエル特急が登場するなど、特急列車が大幅に増発された。当時は地方空港や高速道路網の整備はまだ進んでおらず、マイカーの普及もまだ発展途上だったこともあり、国内旅行者の多くは国鉄を利用していた。
またキャンペーンの始まりと時を同じくして、1970年3月に女性向けのファッション雑誌『an・an』、1971年5月に同『non-no』が創刊された。両誌は各地の小京都や倉敷・萩などのシックな町並み、中山道の静かな宿場(妻籠宿・馬籠宿など)をファッションモデルが訪れる形式で紹介して、若い女性の個人旅行スタイル「アンノン族」を生み出した。各観光地には小グループの女性客が多く来訪するようになり、観光地は女性をターゲットとした街造りを意識するようになった。「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーンは第1次オイルショック(第1次石油危機)を経ながら、1976年12月まで続けられた[10]。『an・an』のモデルでもあった秋川リサは後に、「気ままな旅のリサでございます」という全国の周遊券のテレビCMに登場した[11][12]。なお、批評家の山崎昌夫や写真家の中平卓馬などによるキャンペーンを批判する動きもあった。
- ^ 「1964年10月1日国鉄ダイヤ改正」も参照。
- ^ 当時万博輸送と呼ばれた。大阪万博の交通も参照。
- ^ 「新幹線と日本の半世紀」p122
- ^ 桑本咲子「ディスカバー・ジャパンをめぐって : 交錯する意思から生まれる多面性」『大阪大学日本学報』第32号、大阪大学文学部・大学院文学研究科、2013年3月、131-145頁、ISSN 0286-4207、NAID 120005304644。
- ^ a b 「新幹線と日本の半世紀」p125
- ^ a b c d 「ディスカバー・ジャパン」の衝撃、再び。(2010年12月27日時点のアーカイブ)『Voice』2010年10月号、PHP研究所
- ^ a b ディスカバー、ディスカバー・ジャパン 「遠く」へ行きたい インターネットミュージアム 取材レポート(取材:2014年9月12日)
- ^ 『遠くへ行きたい』は形を変えて2019年現在も続いている長寿番組である。
- ^ 「鉄道100年」の年でもあった。
- ^ 「新幹線と日本の半世紀」p126
- ^ テレビCMの文化力
- ^ 戦後ユース・サブカルチャーズについて(2)
- ^ 「DISCOVER JAPAN」 展覧会で再発見 今、何を見つけますか 産経ニュース 2014年9月18日
- ^ 「ディスカバー、ディスカバー・ジャパン 「遠く」へ行きたい」図録
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