二幕目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:24 UTC 版)
「塩原多助一代記 (歌舞伎)」の記事における「二幕目」の解説
(下新田塩原宅の場)そしてそれから、十五年の月日が流れた。 塩原角右衛門(百姓)は在所では知られた大百姓であったがすでに他界し、そのあとを養子の多助が継いでいる。角右衛門(百姓)は後添えにお亀という女を迎えており、その連れ子である娘のお栄は多助と夫婦になっていた。しかし角右衛門(百姓)が死んだ後はお亀もお栄も自堕落のし放題、沼田の城の藩士である原丹次とそのせがれの丹次郎を家に引き入れて昼間から酒を飲んだり三味線を弾いたりしている。しかのみならずお亀は丹次と密通し、またお栄も、これもこともあろうに亭主持ちでありながら丹次郎と密通していたのだった。今日も丹次と丹三郎は、日の高いうちから塩原の家に来ている。 お栄は、ほんらい亭主の多助を嫌い丹三郎と所帯を持ちたがっていた。そこでお亀たちは多助に言いがかりをつけ、お栄を離縁しろというが、多助は死んだ父角右衛門(百姓)の遺言によって別れるわけにはいかないとつっぱねるので、お亀は怒って持っていたきせるで多助をぶち据える。そこへあらわれたのは、親戚である分家の太左衛門。太左衛門はふだんから耳にするお亀たちの様子に堪り兼ね、意見しに来たのだった。お亀たちは太左衛門にやり込められ、とりあえず離縁の話は引っ込めるしかなかった。 そのあと、多助は隣村まで麦を届けるために出かけていき、太左衛門も帰っていった。だがお亀たちはなおも、邪魔な多助を今行く道の途中で殺してしまおうとの悪巧みを重ねるのだった。 (作場道庚申塚の場)多助は麦を愛馬のあおに背負わせたのを無事届け、もはや日も暮れ暗い帰り道を歩む。ところがあおがいきなり、その歩みを止めた。多助がいくら曳いても動かないので困っていたところ、そこに同じ村の百姓幸右衛門のせがれ円次郎が通りかかる。円次郎にたづなを持たせて曳くとあおは歩み、多助が再び持って曳くと動かない。多助は致し方なくあおを円次郎に曳いてもらい、自分は円次郎の荷を担いで行くことにした。円次郎はあおとともに先に道を行く。 だが、あおを曳いて道を行く円次郎の脇腹を、何者かが竹槍でいきなり突いた。それは原丹次であった。円次郎は倒れる。丹次は止めを刺そうとするが人が来る気配にその場を逃げ去った。丹次は暗い中あおを曳いていた円次郎を、多助と勘違いしたのである。 そこへやってきた多助は、血だらけになった円次郎の様子にびっくりする。円次郎は、これはおそらくお亀たちの仕業だろうとそれとなく言い、今夜の内にもこの土地から逃げるよう言い残し息絶えた。多助は円次郎の死を悲しんだが、その遺言に従ってこの地を離れる決心をした。しかしあおは連れてゆけないので、多助は近くの松の木に手綱を結わえる。じつはあおは十五年前、角右衛門(百姓)が九兵衛から買った馬で、多助と同時に塩原家に来たのだった。それから多助はあおを可愛がり面倒をみ、荷を負わせても労わりつつ曳いてきた。長年一緒にいた愛馬との別れに多助は涙するが、あおのほうも多助の袖を加えてひきとめようとする。あまりのつらさに泣き伏すも、やがて多助は思い切ってその場を走り去るのだった。
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