Princess Marie of Prussia (1855–1888)とは? わかりやすく解説

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マリー・フォン・プロイセン (1855-1888)

(Princess Marie of Prussia (1855–1888) から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/27 06:08 UTC 版)

マリー
Marie
ホーエンツォレルン家
1878年

全名
出生 (1855-09-14) 1855年9月14日
プロイセン王国ポツダム、大理石宮殿
死去 (1888-06-20) 1888年6月20日(32歳没)
ドイツ帝国
ザクセン王国ドレスデン、アルプレヒツベルク城
埋葬 ドイツ帝国
ザクセン=アルテンブルク公国アルテンブルク、ザクセン=アルテンブルク家霊廟
配偶者 ヘンドリック・ファン・オラニエ=ナッサウ
  アルベルト・フォン・ザクセン=アルテンブルク
子女 オルガ・エリーザベト
マリー
父親 フリードリヒ・カール・フォン・プロイセン
母親 マリア・アンナ・フォン・アンハルト=デッサウ
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マリー・フォン・プロイセンドイツ語: Marie von Preußen, 1855年9月14日 - 1888年6月20日)はプロイセン王女。プロイセン王子フリードリヒ・カールの長女で、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世大姪である。最初にオランダ王子ヘンドリック妃、死別後にザクセン=アルテンブルク公子アルベルト妃となった。

生涯

マリーは1855年9月14日、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の三男カールの長男で陸軍元帥のフリードリヒ・カールと、その妃のアンハルト=デッサウ公女マリア・アンナ夫妻の第1子としてポツダム大理石宮殿英語版で生まれた。全名はマリー・エリーザベト・ルイーゼ・フレデリカ(Marie Elisabeth Louise Frederika)。母マリア・アンナはアンハルトレオポルト4世とプロイセン王女フリーデリケ夫妻の末娘である。

マリーと最初の夫ヘンドリック

1878年8月24日、マリーはオランダ王子ヘンドリック・ファン・オラニエ=ナッサウとポツダムの新宮殿英語版[1]で結婚した。夫となるヘンドリックはマリーより35歳も年上で、しかも先妻に先立たれていた男やもめだった。ヘンドリックはオランダ王ウィレム2世と王妃アナ・パウローナ夫妻の三男で、オランダ軍で海軍大将を務め1850年からはルクセンブルク総督の地位にあった。この縁談は、ウィレム3世の2人の息子が両方結婚しないため、将来的なオラニエ=ナッサウ家の断絶を回避する手段として手配された。しかしマリーとヘンドリックの間に子どもは生まれず、結婚からわずか5か月後の1879年1月にヘンドリックははしかに罹って亡くなった。

1883年、マリーは妹ルイーゼ・マルガレーテの一人息子のイギリス王子アーサー・オブ・コノートの洗礼の際、彼の代母となった。洗礼式はイギリスのウィンザー城のプライベートチャペルで行われた。

最初の夫との死別から6年後の1885年5月6日、ベルリン[2]ザクセン=アルテンブルク公子アルベルトと再婚した。夫はザクセン=アルテンブルク公フリードリヒの七男エドゥアルトが2人目の妃のロイス=グライツ侯女ルイーゼ(ロイス=グライツ侯ハインリヒ19世の娘)との間にもうけた三男であり、プロイセン軍に士官していた。この2度目の結婚は仲睦まじいものになったと言われており、娘が2人生まれた。

マリーは1888年6月20日、ドレスデンのアルプレヒツベルク城で産褥熱により死去し[3][4]、ザクセン=アルテンブルク家の墓所に葬られた。

夫のアルベルトは1891年にレンプリン英語版(現在のメクレンブルク=フォアポンメルン州デミン郡)にてメクレンブルク=シュトレーリッツ大公フリードリヒ・ヴィルヘルムの姪でロシア大公ミハイル・パヴロヴィチの孫であるエレナ・ゲオルギエヴナ・メクレンブルク=ストレリツカヤと再婚した[5]

子女

2人目の夫であるアルベルト・フォン・ザクセン=アルテンブルクとの間に2女をもうけた。

  • オルガ・エリーザベト(1886年 - 1955年) - ピュックラー=ブルクハウス伯爵カール・フリードリヒ夫人
  • マリー(1888年 - 1947年) - ロイス=ケストリッツ侯子ハインリヒ35世[注釈 1]

脚注

注釈

  1. ^ ハインリヒ7世・ロイス・ツー・ケストリッツとザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公女マリー夫妻の三男。

出典

外部リンク

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