ルイーゼ・マルガレーテ・フォン・プロイセンとは? わかりやすく解説

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ルイーゼ・マルガレーテ・フォン・プロイセン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/01 05:20 UTC 版)

ルイーズ・マーガレット
Louise Margaret of Prussia

全名 ルイーゼ・マルガレーテ・アレクサンドラ・ヴィクトリア・アグネス
出生 (1860-07-25) 1860年7月25日
プロイセン王国ポツダム近郊、大理石宮殿
死去 (1917-03-14) 1917年3月14日(56歳没)
イギリスクラレンス・ハウス
埋葬 イギリスウィンザー、フロッグモア王室墓地
配偶者 コノート公アーサー
子女 マーガレット
アーサー
パトリシア
家名 ホーエンツォレルン家
父親 プロイセン王子フリードリヒ・カール
母親 マリア・アンナ・フォン・アンハルト=デッサウ
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1887年撮影

ルイーゼ・マルガレーテ・フォン・プロイセンドイツ語: Luise Margareta von Preußen, 1860年7月25日 - 1917年3月14日)は、プロイセン王国の王族。プロイセン王子フリードリヒ・カールの四女で、イギリス王子・コノート公アーサーの妃となった。 英語名はルイーズ・マーガレット・オブ・プロシア(Louise Margaret of Prussia)。

全名はドイツ語でルイーゼ・マルガレーテ・アレクサンドラ・ヴィクトリア・アグネス(Luise Margarete Alexandra Viktoria Agnes)、英語ではルイーズ・マーガレット・アレグザンドラ・ヴィクトリア・アグネス(Louise Margaret Alexandra Victoria Agnes)。

家族からはドイツ語の愛称でルイシェン(Louischen)と呼ばれた。

生涯

1860年7月25日、フリードリヒ・カールとその妃でアンハルト=デッサウレオポルト4世の娘であるマリア・アンナの間に第4子としてポツダム近郊の大理石宮殿で生まれた。父はプロイセン王子カールとその妃マリーの間に生まれた長男で、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の甥にあたる。フリードリヒ・カールは普仏戦争に従軍した軍人であった。

1878年ポツダムでコノート公アーサーと出会い、婚約が成立する。姑のヴィクトリア女王はルイーゼ・マルガレーテの両親が不仲であることを心配した[1]が、積極的に反対する理由がないため、この結婚を認めた。

1879年3月13日ウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂で結婚した。結婚後20年間は、夫の赴任先について各地を転々とし、アーサーがカナダ総督を務めた間も同行していた。夫との間に1男2女をもうけた。

1917年、2年にかけて大流行したインフルエンザにルイーズも感染し、気管支炎を併発して、クラレンス・ハウスで急死した。ウィンザー・フロッグモアにあるイギリス王室の墓所に埋葬された。

脚注

  1. ^ 自身の夫アルバート公の両親は離婚しており、そのことがアルバート公のトラウマとなっていたため。

外部リンク

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