マリーア・ベアトリーチェ・デステ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/31 23:30 UTC 版)
マリーア・ベアトリーチェ・デステ Maria Beatrice d'Este |
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マッサ=カッラーラ女公 | |
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マッサおよびカッラーラ女公マリーア・ベアトリーチェ
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在位 | 1790年 - 1797年、1815年 - 1829年 |
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出生 | 1750年4月6日![]() |
死去 | 1829年11月24日(79歳没)![]() |
埋葬 | ![]() |
配偶者 | フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ |
子女 | 一覧参照 |
家名 | エステ家 |
父親 | エルコレ3世 |
母親 | マリーア・テレーザ・チーボ=マラスピーナ |
マリーア・ベアトリーチェ・リッチャルダ・デステ(Maria Beatrice Ricciarda d'Este, 1750年4月6日 - 1829年11月24日)は、マッサおよびカッラーラ公国の女性統治者(在位:1790年 - 1797年、1815年 - 1829年)。モデナおよびレッジョ公国を治めたエステ家の女子相続人でもあり、オーストリア=エステ家の始祖である。
生涯
モデナ公エルコレ3世とその妻のマッサ=カッラーラ女公マリーア・テレーザの間の一人娘として生まれた。両親は不仲で別居をしていたため、男子の世継ぎをもうけることは出来ないと思われた。このためマリーア・ベアトリーチェは幼い頃からモデナ=レッジョとマッサ=カッラーラの4つの公爵領の相続人と見なされ、求婚者は数多くいた。中でもイタリア半島への影響力を拡大しようと目論むハプスブルク帝国の統治者マリア・テレジアは、1754年に四男のフェルディナントとマリーア・ベアトリーチェとの婚約を成立させることに成功した。
マリーア・ベアトリーチェとフェルディナント大公の結婚式は1771年10月15日にミラノで執り行われた。この婚礼のために、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの『アルバのアスカーニオ』、ヨハン・アドルフ・ハッセの『ルッジェーロ』の2つの歌劇が制作された[1]。夫妻はモデナで暮らすことになった。マリーア・ベアトリーチェは女子であるためモデナ=レッジョ公爵位を継ぐことが出来ず、父エルコレ3世の死後は彼女の最年長の息子が公爵位を継ぐと定められた。一方、1790年に母マリーア・テレーザが死ぬと、マリーア・ベアトリーチェは女子相続の可能なマッサ=カッラーラ公爵位を継承した。
1797年にフランス軍が北イタリアを征服すると、マリーア・ベアトリーチェは家族と一緒に夫の故郷オーストリアに逃れた。そして1815年にマッサ=カッラーラ公国の統治権を回復した後も、公国の行政は役人に委ね、オーストリアに住み続けた。1829年にマリーア・ベアトリーチェが死ぬと、マッサ=カッラーラは彼女の長男フランツが統治するモデナ公国に併合された。
子女
- ヨーゼフ・フランツ (1772年)
- マリア・テレジア・ヨハンナ・ヨゼフィーネ (1773年 - 1832年) - 1789年、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世と結婚
- ヨゼフィーネ・フェルディナンダ・ヨハンナ・アンブロシアナ (1775年 - 1777年)
- マリア・レオポルディーネ・アンナ・ヨゼフィーネ・ヨハンナ (1776年 - 1848年) - 1795年にバイエルン=プファルツ選帝侯カール・テオドールと結婚、1804年にアルコ伯爵ルートヴィヒと再婚
- フランツ・ヨーゼフ・カール・アンブロシウス・シュタニスラウス (1779年 - 1846年) - モデナ公フランチェスコ4世
- フェルディナント・カール・ヨーゼフ (1781年 - 1850年)
- マクシミリアン・ヨーゼフ・ヨハン・アンブロシウス・カール (1782年 - 1863年)
- マリア・アントーニア (1784年 - 1786年)
- カール・アンブロシウス・ヨーゼフ・ヨハン・バプティスト (1785年 - 1809年) - グラン大司教、ハンガリー首座大司教
- マリア・ルドヴィカ・ベアトリクス・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ (1787年 - 1816年) - 1808年、オーストリア皇帝フランツ1世と結婚
脚注
参考文献
- 西川尚生『モーツァルト 作曲家・人と作品シリーズ』音楽之友社、2005年10月。ISBN 978-4-276-22174-1。
関連項目
先代 マリーア・テレーザ |
マッサおよびカッラーラ女公 1790年 - 1797年 |
チザルピーナ共和国の成立 |
チザルピーナ共和国の崩壊 | マッサおよびカッラーラ女公 1815年 - 1829年 |
次代 フランチェスコ |
「Maria Beatrice d'Este, Duchess of Massa」の例文・使い方・用例・文例
- Microsoftがβ版をランチするのは「NetShow streaming server」で動画や音声をオンデマンドで提供する。
- 《主に米国で用いられる》 = 《主に英国で用いられる》 an admiral of the fleet 海軍元帥.
- 篏入的 r 音 《英音の India office /ndiərfɪs/の /r/の音》.
- =《口語》 These kind of stamps are rare. この種の[こういう]切手は珍しい.
- (英国の)運輸省. the Ministry of Education(, Science and Culture) (日本の)文部省.
- は of の誤植です.
- を off と誤植する.
- あいまい母音 《about, sofa などの /ə/》.
- 副詞的小詞 《on, in, out, over, off など》.
- 迂言的属格 《語尾変化によらず前置詞によって示す属格; たとえば Caesar's の代わりの of Caesar など》.
- çon of garlic [humor]. それにはガーリック[ユーモア]がちょっぴり必要だ.
- 《主に米国で用いられる》 = 《主に英国で用いられる》 the Speaker of the House of Commons 下院議長.
- 《主に米国で用いられる》 = 《主に英国で用いられる》 the Committee of Ways and Means 歳入委員会.
- 初めて読んだ英文小説は“The Vicar of Wakefield”
- (違法罪―a sin of commission―に対する)怠惰罪
- 『each』、『every』、『either』、『neither』、『none』が分配的、つまり集団の中の1つのものを指すのに対し、『which of the men』の『which』は分離的である
- 『hot off the press(最新情報)』は『hot(最新の)』の拡張感覚を示している
- 『Each made a list of the books that had influenced him』における制限節は、リストに載った本を制限節で定義された特定の本だけに制限する
- 臨床的鬱病を治療するのに用いられる三環系抗鬱薬(商品名ImavateとTofranil)
- 『sunshine-roof』は『sunroof(サンルーフ)』に対する英国の用語である
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