IAEA事務局長として
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2008年9月26日、日本国政府から国際原子力機関 (IAEA) の次期事務局長選挙に擁立される。この選挙は2009年11月末に退任したエルバラダイ事務局長の後任を選ぶ選挙で、最終的に日本の天野と南アフリカのアブドゥル・ミンティIAEA担当大使が立候補した。 天野は「日本が唯一の被爆国であり、原子力を平和利用してきたこと」や「核兵器不拡散への決意」などを訴え欧米主要国の支持を得ているに対し、ミンティは「南アフリカが核兵器を所有後放棄した唯一の国であること」や「発展途上国への原子力の必要性」を訴えることで発展途上国を中心に支持を得ている。 3月26日、計3回の投票が行われ、その全てで天野が優勢だったが、両者とも特別理事会35カ国の3分の2以上(23カ国)の信任は得られなかった。後日27日にもう一度投票が行われたが、結果は変わらなかった。この事態の責任を取るため、外務省の総合外交政策局軍縮不拡散・科学部部長の佐野利男と大臣官房総括審議官の松富重夫が頭を剃り丸坊主となった。 2009年7月2日に行われた第2回目の投票には天野の他に前回も出馬したアブドゥル・ミンティ、経済協力開発機構 (OECD) 原子力機関のエチャバリ事務局長が立候補した。最終的に前回と同じく天野とミンティが残り、天野は23票、ミンティは12票を獲得。続く信任投票でも必要な3分の2以上の23票を獲得し、当選が決まった。その後、9月の年次総会で正式承認され、12月に就任した。任期は4年。 2013年3月6日、IAEA理事会で再任が決定する。その後、9月の年次総会で正式承認され、12月より2期目の任期が始まる。任期は4年。 2017年3月8日、IAEA理事会で再任が決定する。その後、9月の年次総会で正式承認され、12月より3期目の任期が始まる。任期は4年。 2019年7月17日、健康問題により翌年3月までに辞職する意向が報道されたが、IAEAは天野が7月18日に死去した旨を7月22日に発表した。72歳没。政府は没後、従三位に叙するとともに、瑞宝大綬章を追贈した。 IAEAは2020年6月5日、ウィーン郊外にある原子力応用研究所内で「ユキヤ・アマノ研究所」の開所式を開いた。
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