E-M理論とF-15
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「ジョン・ボイド (軍人)」の記事における「E-M理論とF-15」の解説
1961年、ボイドはジョージア工科大学に入校し、生産工学の学士号を取得した。彼はここで物理学と熱力学の2名の教授と出会い、多くの示唆を受けた。 その後、不本意ながらフロリダ州エグリン空軍基地で機体整備に配置されたが、この期間中、ボイドは、のちにエネルギー機動性理論(E-M理論)として知られることになる画期的な理論を創案した。これは、いわば熱力学の考え方を空戦理論に導入したものであり、要すれば、戦闘機の戦闘能力は機体が有するエネルギー量によって決定されるというものであった。ボイドは、同基地に勤務する文官であったトーマス・クリスティの協力を得てこの理論を検証し、外国技術センターのコンピュータにアクセスして、米機と仮想敵機の優劣について検討した。なお、このアクセスが無断で行なわれたため、のちに発覚した際には一時重大な問題となった。 1964年、ボイドとクリスティは、E-M理論を完成させ、エグリン、ネリスなど様々な空軍基地や航空機メーカーでブリーフィングを行い、1964年末には戦術航空軍団(TAC)司令官のスウィーニー大将や空軍長官にもブリーフィングを行った。当時、アメリカ空軍は新戦闘機(FX)の開発に向けた準備作業に入っており、1965年4月にはコンセプト研究が開始された。しかし、ベトナム戦争と第三次中東戦争の戦訓、そして後に1967年にドモジェドヴォ空港で開かれた航空ショーでソ連空軍・防空軍の新鋭機としてMiG-23・MiG-25が公開されたことを受けて議論は紛糾していた。空軍参謀部は、この紛糾状態を収拾する手法としてボイドのE-M理論に着目し、1966年、ボイドはF-X運用要求策定チームに発令された。 ボイドは、自らのE-M理論を土台としたトレードオフ分析により、コンセプト研究を思い切って見直すこととした。このトレードオフ分析は、当時は理想的翼型と見なされていた可変翼(V-G翼)の棄却やエンジンのバイパス比からの再検討など、非常に思い切ったものであり、この結果、機体重量は27トンから18トンに大幅に軽減された。これによって、FXコンセプト研究の混沌状態は打破され、1968年9月、RFP(英語版)が発出された。このFX計画は、最終的にはF-15として結実することになった。
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