ビリー・J・クレイマー
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 06:14 UTC 版)
ビリー・J・クレイマー | |
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(1965年)
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基本情報 | |
出生名 | ウィリアム・ハワード・アシュトン |
生誕 | |
ジャンル | |
職業 | 歌手 |
担当楽器 | ボーカル |
活動期間 | 1963年 - |
レーベル | |
共同作業者 | ザ・ダコタス |
ウィリアム・ハワード・アシュトン(William Howard Ashton)は、ビリー・J・クレイマー(Billy J. Kramer)の名で知られるイギリスの歌手。バックバンドのザ・ダコタスと共にブリティッシュ・インヴェイジョン期に活躍し、ビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーから曲を提供されたことでも話題を呼ぶ。
来歴
デビュー前
7人兄弟の末っ子として、マージーサイド州ブートルに生まれる。イギリス国鉄に機関実習生として勤めている傍ら、バンドでリズム・ギターを担当する。そのバンドのリード・シンガーが脱退すると、ギターの腕があまり良くなかったクレイマー(当時はまだ本名)はリード・シンガーに転向する。
ブライアン・エプスタインの目に止まり、契約を結ぶ。最初は、コースターズというバンド(アメリカのドゥーワップ・グループとは別)がバックバンドになっていたが、相性が合わなかったため、当時ピート・マックレインのバックバンドをしていた、マンチェスター出身のザ・ダコタスが就任した。
成功
1963年、ビートルズのデビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』に収録されていた、「ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット」のカバーでデビューを飾る。そのシングルは功を奏し、チャートの2位を記録する[2]。続く2枚目の『バッド・トゥ・ミー/アイ・コール・ユア・ネーム』もチャートの1位を記録[2]、ゴールドディスクにも認定される[3]。更に3枚目の「アイル・キープ・ユー・サティスファイド」もチャートの4位を記録し、一躍ヒット歌手の仲間入りを果たす。
連続してビートルズ提供のシングルが発表されたため、クレイマーのイメージに、常にビートルズの影が付いてくるようになってしまった。そのイメージを払拭するため、4枚目のシングルにはモート・シューマン作曲の「リトル・チルドレン」を収録。このシングルもチャートの1位を獲得。アメリカのBillboard Hot 100でも7位を記録し、キャリア最大のヒットとなる。5枚目のビートルズ提供曲のシングル「フロム・ア・ウィンドウ」が10位を記録[2]。
成功後
1965年に発表されたバート・バカラック作の「トレインズ・アンド・ボート・アンド・プレインズ」(汽車と船と飛行機と)がチャートの12位を記録するが、その後のシングルではチャートを賑わす事がなく、クレイマー自身の人気も失速していく[2]。ザ・ダコタスとも袂を分かち、1966年パーロフォンを辞め、レコード会社を転々とする。
その後も活動を続け、シングルも出すが、話題を呼ぶ事はなかった。
ディスコグラフィー
発売年 | A面 | B面 | 最高位 (UK)[4] |
---|---|---|---|
1963年 | Do You Want To Know A Secret? | I'll Be On My Way | 2位 |
1963年 | Bad To Me | I'll Call Your Name | 1位 |
1963年 | I'll Keep You Satisfied | I Know | 4位 |
1964年 | Little Children | They Remind Me Of You | 1位 |
1964年 | From A Window | Second To None | 10位 |
1965年 | It's Gotta Last Forever | Don't Do It No More | - |
1965年 | Trains And Boats And Plains | That's The Way I Feel | 12位 |
1965年 | Neon City | I'll Be Doggone | - |
1966年 | We're Doing Fine | Forgive Me | - |
1966年 | Take My Hand | You Make Me Feel Like Someone | - |
1967年 | Chinese Girl | Town Of Tuxley Toymaker | - |
1968年 | His Love Is Just A Lie | 1941 | - |
1968年 | World Without Love | Going Through It | - |
1969年 | Colour Of My Love | I'm Running Away | - |
脚注
出典
- ^ a b c Unterberger, Richie. “Billy J. Kramer | Biography & History”. AllMusic. All Media Group. 2021年5月18日閲覧。
- ^ a b c d Roberts, David (2006). British Hit Singles & Albums (19th ed.). London: Guinness World Records Limited. p. 307. ISBN 1-904994-10-5
- ^ Murrells, Joseph (1978). The Book of Golden Discs (2nd ed.). London: Barrie and Jenkins Ltd. p. 161. ISBN 0-214-20512-6
- ^ “BILLY J KRAMER AND THE DAKOTAS | full Official Chart History”. Official Charts Company. 2021年5月18日閲覧。
関連項目
「Billy J. Kramer」の例文・使い方・用例・文例
- 私の名はジョン・ダグラスですので頭文字はJ. D.です
- フォーサイト家物語 《J. Galsworthy 作の小説》.
- J.C. バッハは音楽家の血統の家に生まれました.
- 不用心な読者を簡単に黙認に誘い込む−O.J.キャンプベル
- 事実と一致する仮説を一時的に受け入れること−J.W.クラッチ
- 人生というものは、楽しい講義であるべきである−J.J.チャップマン
- 重複するという危険から、私は元々の提案に戻ります。− J.b.コナント
- 才能を与えられた−J.L.ローズ
- 夏の行楽地...偉大な下見板張りと化粧漆喰のホテルに圧迫される−A.J.リープリング
- 学ぶのは賢明だ;創造することは神々しい‐J.G.サックス
- 彼女の服は地味で目立たなかった−J.G.カズンズ
- 6月のある日と同じくらい珍しい−J.R.ローウェル
- 疑いなく、彼の最も恐ろしい部分は鉄の鈎爪だった−J.M.Barrie
- 刑罰哲学からリハビリステーション哲学まで−J.B.コステーロ
- 社会秩序と繁栄、結合している政府の目的‐J.K.フェアバンク
- 民族的、文化的な結びつきによって影響を及ぼされる−J.F.ケネディ
- 儀式…彼らがよくオーリニエイション時代の書面での記録がない起源があったかもしれないほど古い−J.L.T.C.スペンス
- カリフォルニア州はO.J.シンプソンを起訴した
- あられや冷たい雨、あるいは他の何らかの自然災害との闘い − J.K.ハワード
- 一元論の学校は全国法則および国際法を統合全体と見なすだろう−J.S.ルーセック
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