プティクーディアクの戦い
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プティクーディアクの戦い | |||||||
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フレンチ・インディアン戦争中 | |||||||
![]() イギリス軍によるアカディア人への立ち退き命令 |
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衝突した勢力 | |||||||
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アカディア民兵 ミクマク族 |
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指揮官 | |||||||
ジョセフ・フライ シルヴァナス・コッブ |
シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール・エ・ド・ラフェト | ||||||
戦力 | |||||||
200 | 120 | ||||||
被害者数 | |||||||
戦死22 負傷数人 |
戦死1 負傷6 |
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プティクーディアクの戦い(仏 Bataille de Petitcoudiac、英 Battle of Petitcodiac)は、フレンチ・インディアン戦争の戦闘である。イギリス植民地軍と、フランス人士官シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール・エ・ド・ラフェトに率いられたアカディア反乱軍とが、1755年9月4日に、プティコディアック川(プティクーディアク川)に面したヴィヤージュ・デ・ブランシャール(現在のカナダのニューブランズウィック州ヒルズボロ)で交戦した。
概要
ボーセジュール攻略後
1755年6月16日、ボーセジュール砦の攻略ののち、ノバスコシア総督チャールズ・ローレンスの命令のもと、イギリス軍はアカディア人の追放作戦に出た。指揮官の大佐ロバート・モンクトンは、多くのアカディア人の村や、民兵に奇襲をかけた。一方で、アカディア側の指揮官ボワシェベールは、攻略後姿をくらましていた。モンクトンは、ボワシェベールが、ニューブランズウィックのどこかにいることは気づいていた。ボーセジュールの攻略で、指揮官のルイ・デュ・ポン・デュシャンボン・ド・ヴェルゴが降伏したものの、この攻略でニューブランズウィックすべてが降伏したわけではなく、イギリス軍を撃退する機会はいくらでもあった[1]。
攻略の後、モンクトンは、セントジョン川の河口のポワント・サンタンヌ(現フレデリクトン)[1]を守っていたボワシェベールを立ち退かせるため艦隊を送った。守りきれないと悟ったボワシェベールは砦を壊した。[2]イギリス軍が、プティクーディアク川への遠征を計画しているという情報を受け取ったボワシェベールは、シプディ(現シェポディ)に急いだ[3]。フランス本国からも、ルイブールからも、そしてケベックからも、今後のアカディアに関して命令らしきものは来なかったが、ボワシェベールは、対イギリス同盟のため、個人的な人脈も活用して先住民とも接触を図り[1]120人のアカディア人、先住民マリシートとミクマクとともにゲリラ軍を結成した。反乱軍のリーダーとなったボワシェベールは、ミラミシ川の河谷を拠点に、アカディア人をイギリス軍からのがれさせ、ケベックに送るための手助けをした。[3]
ファンディ湾方面作戦が行われていた8月28日、モンクトンは少佐のジョセフ・フライと200人の民兵の遠征軍を、かつてはボーセジュール砦だったカンバーランド砦から、2隻の武装したスループに乗せ、プティクーディアク川に面したアカディア人の入植地を根絶やしにするよう命令を出した[2]。シプディの建物に火を放った後、遠征軍は川を前進し、集落に火をつけ、道すがら村人を捕虜として拘留した[2]。
戦闘
9月2日、遠征軍がヴィヤージュ・デ・ブランシャールの内外に火を放ち、集落地根絶の作戦を開始した。本隊はプティコディアック川の東岸にいて、50人から60人ほどの、ジョン・インディコット率いる分遣隊が西岸にいた。[4] 彼らが教会に火を付けた時、ボワシェベールと80人の兵[5]とあるため、が攻撃を仕掛けた[2]。イギリス軍は堤防の陰に引き揚げ、フライが残った兵と上陸して指揮を執った時は、かなり動転していた。3時間に及ぶ激戦の後、フライは結局兵たちをせきたててボートに乗せ、退却した。イギリス軍の戦死者は22人、負傷者は6人だった。[6]
難民キャンプ
イギリスにとっては手痛い敗戦だった。フランソワ・ル・グェルヌ修道院長[7]によれば、この戦いは「ボーセジュールのすべての大砲よりもイギリス軍を震え上がらせた」[8]反乱軍の多くにとっては、初めての戦闘体験であった[9]。
この戦いはアカディア人にとって初めて見えた希望だった、ボワシェベールはアカディア人家族30人を救出し、農作物と備蓄食糧とが賄えるほどの畑もいくつか確保した[10]。ラフェトは「カン・ド・レスペランス」(Camp de l’Espérance、「希望のキャンプ」)として知られる、アカディア難民のキャンプをボワシェベール島(現ニューブランズウィック州ミラミシのボーベアーズ島)に作った。シャルール湾とレスティグーシュ川にもキャンプがあり、そこには、アカディア人たちはどうにか自分たちでたどり着いた[11]。レスティグーシュ川の難民キャンプは、プティ・ロシェル(現ケベック州ポワント=ア=ラ=クロワ)にあった。ここは、今のニューブランズウィック州キャンベルトンの近くである。[12]
脚注
- ^ a b c The Battle of the Petitcodiac, September 2, 1755 (Bradley Shoebottom) - Academia edu.
- ^ a b c d Faragher, p. 350
- ^ a b Faragher, p. 350; Grenier, p.180
- ^ Grenier, p. 180. 注:歴史家のグルニエは、戦場はプティコディアクではなく、むしろシプディであったとしている。一方で、一次資料として、ジェレディア・プレブル少佐の手紙に、戦いは「シポディア」で行われた旨のことが書かれている。 (参照:Peter Landry. The Lion and the Lily. Trafford Press. 2007. p. 535)
- ^ 英語版では300人の兵と記されているが、他国語版のInfoboxの人数から判断する限り不自然であるため、前出のこの資料に準じた。
The Battle of the Petitcodiac, September 2, 1755 (Bradley Shoebottom) - Academia edu. - ^ Grenier, p. 180. フランス軍によれば、イギリス軍戦死者は80人となっている。 (参照 Grenier, p. 180).
- ^ Histoire de Acadiens et de l'Acadie - François Le Guerne, l'abée
- ^ Faragher, p. 351
- ^ Grenier, p. 180
- ^ Grenier, p. 181
- ^ Lockerby, 2008, p.17, p.24, p.26, p.56
- ^ Faragher, p. 414; 参照: History: Commodore Byron's Conquest. The Canadian Press. July 19, 2008 http://www.acadian.org/La%20Petite-Rochelle.html
参考文献
- John Faragher. Great and Nobel Scheme. Norton. 2005.
- John Grenier. The Far Reaches of Empire: War in Nova Scotia 1710-1760. University of Oklahoma Press. 2008.
- Earle Lockerby. The Explusion of the Acadians from Prince Edward Island. Nimbus Press. 2008.
- Commemoration of Battle
- http://www.pc.gc.ca/docs/r/system-reseau/sec9/sites-lieux112_e.asp
- Doughty, Sir Arthur George. The Acadian exiles: a chronicle of the land of Evangeline
- Wrong, George. Chronicles of Canada
- Arsenault, Bona, and Alain, Pascal. Histoire des Acadiens
- The_Battle_of_the_Petitcodiac_September_2_1755
関連項目
「Battle of Petitcodiac」の例文・使い方・用例・文例
- 米国のメキシコとメキシコ系のアメリカの共同体で1862年にプエブラのBattleのフランス人に対するメキシコの勝利を記念するのが観測される5月5日
- Microsoftがβ版をランチするのは「NetShow streaming server」で動画や音声をオンデマンドで提供する。
- 《主に米国で用いられる》 = 《主に英国で用いられる》 an admiral of the fleet 海軍元帥.
- 篏入的 r 音 《英音の India office /ndiərfɪs/の /r/の音》.
- =《口語》 These kind of stamps are rare. この種の[こういう]切手は珍しい.
- (英国の)運輸省. the Ministry of Education(, Science and Culture) (日本の)文部省.
- は of の誤植です.
- を off と誤植する.
- あいまい母音 《about, sofa などの /ə/》.
- 副詞的小詞 《on, in, out, over, off など》.
- 迂言的属格 《語尾変化によらず前置詞によって示す属格; たとえば Caesar's の代わりの of Caesar など》.
- çon of garlic [humor]. それにはガーリック[ユーモア]がちょっぴり必要だ.
- 《主に米国で用いられる》 = 《主に英国で用いられる》 the Speaker of the House of Commons 下院議長.
- 《主に米国で用いられる》 = 《主に英国で用いられる》 the Committee of Ways and Means 歳入委員会.
- 初めて読んだ英文小説は“The Vicar of Wakefield”
- (違法罪―a sin of commission―に対する)怠惰罪
- 『each』、『every』、『either』、『neither』、『none』が分配的、つまり集団の中の1つのものを指すのに対し、『which of the men』の『which』は分離的である
- 『hot off the press(最新情報)』は『hot(最新の)』の拡張感覚を示している
- 『Each made a list of the books that had influenced him』における制限節は、リストに載った本を制限節で定義された特定の本だけに制限する
- 臨床的鬱病を治療するのに用いられる三環系抗鬱薬(商品名ImavateとTofranil)
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