2007-11年(HPD)
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「ハイクロフト・レーシング」の記事における「2007-11年(HPD)」の解説
2007年、チームはホンダ・パフォーマンス・ディベロップメント(HPD)によって、ALMSでのアキュラのデビューの為、アキュラ・ARX-01で参戦する3チームの内の1つに選ばれた。ドライバーはデビッド・ブラバムとステファン・ヨハンソン。2007年シーズン、チームの最高の結果は、クラス3位だったロード・アメリカ。ハイクロフトレーシングは、ペンスキーレーシングとダイソンレーシングの2つのポルシェチームに続き、LMP2クラス3位を終えたが、アキュラチーム中では最上位だった。デビッドブラバムとステファンヨハンソンはドライバーズチャンピオンシップで5位に終わった。 2008年、チームはアキュラ・ARX-01での参戦を継続した。チームはまた、3年間の契約でパトロンテキーラからタイトルスポンサーを獲得した。スコット・シャープがチームに加わり、デビッド・ブラバムとペアを組み、ステファン・ヨハンソンの後任になった。2008年シーズン、チームはライムロックパークで総合優勝を獲得し、アキュラに初の総合優勝をもたらした。チームはペンスキーレーシングに次ぐLMP2チャンピオンシップ2位でアキュラチーム中最上位だった。ドライバーのスコット・シャープとデビッド・ブラバムもチャンピオンシップ2位に終わった。 2009年、ハイクロフトはアキュラの新LMP1マシンで参戦する2チームの内の1つになった。ハイクロフトとド・フェランモータースポーツは、2009年シーズン、アキュラ・ARX-02aで参戦した。アウディスポーツノースアメリカが参戦しなかった為、チームの競争相手はド・フェランモータースポーツだった。チームはセントピーターズバーグ、ロードアメリカ、モスポートで勝利を収めた。ハイクロフトレーシングはシーズンを通してド・フェランモータースポーツよりもポイントを獲得し、LMP1チームチャンピオンを獲得した。スコットシャープとデビッドブラバムもLMP1ドライバーズチャンピオンを獲得した。 2010年シーズンは、LMP1クラスとLMP2クラスが、パフォーマンスのバランスが取れた新しい1つのLMPクラスに統合された。スコットシャープは、パトロンのCEOであるエド・ブラウンとのチームを始めるために、2009年限りでハイクロフトを去った。ド・フェラン・モータースポーツからサイモン・パジェノーが、ブラバムのチームメイトとして加入した。チームはLMP2仕様のアキュラのマシンに戻り、HPD名義での参戦となった。ハイクロフトは、HPD・ARX-01cですべてのレースで表彰台、そして4度の優勝を獲得した。ハイクロフトは2年連続のチームとドライバーズチャンピオンシップを獲得した。 2010年、ハイクロフトレーシングは、アメリカンルマンシリーズの、HPD・ARX-01cを使用して、ル・マン24時間レース(英語版)にデビューした。フランスのアルコール法により、チームはメインスポンサーであるパトロンテキーラを車に表示することができなかった。代わりに、彼らは慈善パートナーであるマラリア・ノー・モアを代理に選んだ。ドライバーのデビッド・ブラバム、マリーノ・フランキッティ、マルコ・ヴェルナーは、2台目のHPDチームである、ストラッカ・レーシングに次ぐ、予選でクラス2位を獲得した。レースでは296周を走行、LMP2クラスで9位でフィニッシュした。 2011年、ハイクロフトレーシングは、アメリカンルマンシリーズのフル参戦とルマン24時間レースに、LMP1クラスに適合させた新しいHPD・ ARX-01eで参戦することを目的としていた。チームは、レースのわずか1週間前に新車が届き、セブリング12時間レースに参戦した。デビッド・ブラバム、サイモン・パジェノー、マリーノ・フランキッティは予選7位、決勝は総合2位で、332周を走破した。5月16日、ハイクロフトレーシングとHPDは、パートナーシップを終了すると発表した。東日本大震災のホンダへの影響により、チームはルマン24時間レースへの出場を取りやめ、資金不足の為にアメリカンルマンシリーズの残りのシーズンには出場しなかった。
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