20世紀(廃止)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/13 18:56 UTC 版)
「プティト・サンチュール」の記事における「20世紀(廃止)」の解説
1931年6月7日、パリ市議会に、プティト・サンチュールの旅客輸送を廃止すべきとする報告書が提出される。報告者であるジョルジュ・プラドは、プティト・サンチュールの最盛期が1890年から1900年までであり、その旅客数がパリ城壁内の総旅客数の10パーセントを決して超えなかったこと及び1930年に辛うじて1パーセントを超えたに過ぎないことを明示した。なお、ティエールの城壁は1919年から1929年にかけて解体されており、このころには、戦略的要請も低下ないし消滅していた。 旅客の輸送は1934年4月1日に終了し、以降、バスのPC線が代行輸送することとなった。その後西側のポン・カルディネからオートゥイユまでの通称オートゥイユ線は1985年まで利用されたが、1988年RER C線がポントワーズ、アルジャントゥイユ方面へ延伸した際にそのルートを提供した。15区のヴィクトール通りと16区のオートゥイユ門を結び、セーヌ川を渡っていた高架橋は1958年に解体され、路線の西と南は離ればなれになった。 1934年以降はもっぱら貨物列車がプティト・サンチュールを利用した。南部では1976年までグルネルのシトロエンの工場(現在はアンドレ・シトロエン公園になっている)に、1979年までヴォージラールの屠殺場(現在はジョルジュ・ブラッサン公園になっている)に、1991年までゴブラン駅(13区のオリンピアード地区にあった)に通じていた。また、1980年代の末までパリのターミナル駅の間を列車を移動させるのにも使われた。貨物輸送は1990年代の初めまで行われた。 アヴニュー・アンリ・マルタン駅(フランス語版)よりポルト・ド・クリシー駅(フランス語版)までの区間はRER C線として現在も運用されている。駅舎の一部はカフェや店舗などに店貸しされている。
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