1990年~1993年にかけて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 06:35 UTC 版)
「山崎浩子」の記事における「1990年~1993年にかけて」の解説
1990年冬、文鮮明の子・興進の墓参りなどのため韓国を訪問。1991年夏、この年に合同結婚式(祝福)が行われることを知る。祝福は神の審判とも呼ばれ、かつては仕事を辞め自己を投げうつ献身者と呼ばれる信者しか受けることができなかったという。そのような苦しい経験がないまま祝福を受けることに恐怖を感じ、1週間の断食に挑戦し成功。その後知り合った男性から好意を伝えられたが、祝福を受ける以外に救われる道はないとの思いから関係を絶つ。合同結婚式は延期になった。 1992年3月、母親の死去をきっかけにためらっていた祝福を受ける決心をする。夏に行われる合同結婚式に参加することが6月25日発売の週刊文春に掲載され、同日の記者会見では入信の動機などについて答えるとともに、文鮮明が選ぶ相手ならどんな人物でもいいと述べた。この会見は全国の教会員から絶賛されたが、親戚からは結婚を猛反対された。6月30日、相手となる28歳の日本人男性と対面しその場で結婚を了承。断ることは当初から考えていなかった。 1992年8月24日、合同結婚式に参加する女優の桜田淳子、バドミントン選手の徳田敦子とともに文鮮明・韓鶴子夫妻に面会し、翌25日にソウルオリンピックスタジアムで行われた結婚式に3万組の新郎新婦とともに参加。教会に批判的な報道が続いた影響で講演などの仕事が減り、経済的に苦しくなる。教会からは入籍を促されていたが、姉の頼みもあり母親の一周忌を過ぎてからと決めた。 1993年3月6日、姉の家で夫の両親と姉夫婦が初めて顔を合わせるが、教会への批判や指摘に終始したまま夫家族が帰る。その後、墓のことで話があるとやって来た叔父夫婦が結婚について別の場所で話し合いたいと持ちかけた時には、これが教会で聞かされてきた拉致・監禁だと気付き涙が止まらなかったが、逃げてはいけないと考え従う。連れて来られたのはマンションの一室だった。
※この「1990年~1993年にかけて」の解説は、「山崎浩子」の解説の一部です。
「1990年~1993年にかけて」を含む「山崎浩子」の記事については、「山崎浩子」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から1990年~1993年にかけてを検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から1990年~1993年にかけて を検索
- 1990年~1993年にかけてのページへのリンク