1975年、WGPへの挑戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 07:21 UTC 版)
「根本健」の記事における「1975年、WGPへの挑戦」の解説
根本はヨーロッパでの最初のレースをダッチTT(オランダGP)と決めて、エントリーを受理してもらうためにヤマハのオランダの現地法人ヤマハNVに協力してもらうことにした。しかし、ダッチTTの主催者はヤマハNVにも断わりの連絡を入れ、根本はダッチTTを走ることができなかった。翌週のベルギーGP(スパ・フランコルシャン)では日本から送ったエントリー用紙が届いていたので出場することができた。当時のスパ・フランコルシャンは1周14kmと長く、また、250ccクラスの平均速度が200km/hを越すというWGPで最も平均速度が速いサーキットであった。当時の市販状態のヤマハTZ250の最高速度が215km/hだったので、かなりの高速サーキットであることがわかる。初めてのWGPで、なおかつ初めてのコースだったので根本は予選結果が31位となり、予選落ちしてしまう。かつて、ヤーノ・サーリネンのメカニックをし、当時はケント・アンダーソンのメカニックをしていたフェリーに「Ken、ココはキャリアがないと難しい。初挑戦にしては良い結果だヨ」と慰められる。また、500ccクラスに参戦している日本のメーカーのワークスチームの人たちからも「市販レーサーじゃ辛いよネ」と同情された。更に、ジャコモ・アゴスチーニからは「世界GPは知らないコースでも、即座に最速の走りが要求される。徐々に徐々にじゃ通用しない」と言われて気落ちする。しかし根本はこれにより全日本ロードレース選手権時代の実績へのこだわりを捨てることができた。
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