1975年、WGPへのエントリーの壁
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「根本健」の記事における「1975年、WGPへのエントリーの壁」の解説
当時のWGPはサーキットの大きさによって出走台数が決まっており、予選時からその台数しか走ることができない。その優先順位は、ライダーの前年のWGPでのランキングが優先され、次にGP開催国のライセンスを持つワイルドカードライダーとなる。日本では1967年を最後にWGPは開催されていないので、基本的にエントリーは無理なのであるが、日本メーカーと契約している日本人ライダーの場合は、日本メーカーが主催者にかなりの圧力をかけて例外的にエントリーが認められていた。しかし、根本はプライベートライダーなのでこのようなわけにはいかない。各国のレース主催者にエントリー用紙を送付してくれるように手紙を出しても無反応な場合が多かった。エントリー用紙を送付してくれた主催者の場合でも、エントリー用紙に記入してそれを主催者に送っても、受理したという返信はなかった。このような事情から根本はヨーロッパへ行って、エントリーを受け付けてもうらうために直接主催者と交渉することを決意する。
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