1759年-1760年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 00:05 UTC 版)
「フレンチ・インディアン戦争」の記事における「1759年-1760年」の解説
「幸運の年1759年」に、イギリス軍はすべての戦場で快進撃を続けた。ナイアガラ砦の戦いで、その前年のフロンテナック砦の戦い共々、オハイオ領土におけるフランスの影響を封じ込め、カリヨン砦を奪い、エイブラハム平原の戦いで、ジェームズ・ウルフがモンカルムを破った(この戦いで両名とも戦死した) また、イギリス領アメリカのレンジャー部隊ロジャーズ・レンジャーズによる、フランスに味方したアベナキ族への襲撃もあった フランスはイギリス本土進攻に焦点を合わせることを決定した。これは、ピットによる海外植民地作戦を阻止するものだったが、この目論見は失敗した、イギリスの諸艦隊が自国近海に張り付いており、ジャン=フランソワ・ド・ラ・クルー=サブラン(英語版)率いるトゥーロン艦隊がボスカーエンの戦隊に発見され、交戦の後フランス軍は逃走した。これがラゴスの海戦である。また、ブレスト封鎖中のホーク艦隊が一旦トーベイに撤退した隙を狙って、フランスのコンフラン提督のブレスト艦隊が、ブルターニュ半島南部のキブロン湾に向かったため、荒天の中、しかも浅瀬の多いキブロン湾で両者は相まみえた。フランス軍はまたも多大な損失を出して敗北を喫した。この海戦は「七年戦争におけるトラファルガーの海戦と呼ばれ、ホークの名を一躍たからしめた 1760年、イギリス軍はサントフォワの戦いで負けたにも関わらず、レスティガッチの海戦でフランスの救援部隊の上陸を阻止することができ 一方で陸軍は、ケベック、シャンプラン湖、そしてセントローレンス川上流の三方向からモントリオールへと進軍した。ここに北米大陸におけるフランスの植民地支配は終わりを告げた。 1760年9月、ヴォードルイユ総督が降伏文書に調印した後、初代総督となったジェームズ・マレーは、植民地にとどまることを選んだフランス人入植者には、カトリックを信仰し続ける自由、財産を所有する自由、平穏な生活を送る権利を与えた
※この「1759年-1760年」の解説は、「フレンチ・インディアン戦争」の解説の一部です。
「1759年-1760年」を含む「フレンチ・インディアン戦争」の記事については、「フレンチ・インディアン戦争」の概要を参照ください。
- 1759年-1760年のページへのリンク