鳳凰殿と日本庭園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 08:10 UTC 版)
「シカゴ万国博覧会 (1893年)」の記事における「鳳凰殿と日本庭園」の解説
ウーデッド・アイランドと名付けられた中州にあった鳳凰殿と日本庭園は博覧会終了後、天皇からの寄贈という形でシカゴ市へ寄贈され、公園の一部として残された。1934年にはニューディール政策の一環として、ジョージ・K・シモダ(1866 – 1931)の設計図をもとに、新しい廻遊式庭園として整備された。鳳凰殿と庭園の手入れは、シカゴ市公園委員会より、日系移民のショウジ・オオサト (1885-1955) と妻のフランシス・フィッツパトリック(Frances Fitzpatrick。1897-1954。アイルランドとフランスの血を引くカナダ人。建築家の娘)に委任され、2人は1941年までこれを日本茶館として管理した(2人の娘ソノ・オオサトはのちにバレエ・リュスのバレリーナとして活躍した)。 第二次世界大戦における日本とアメリカの開戦後に、オオサトが日系人の強制収容に見舞われると、「敵国」の施設は放置され、略奪などで荒れ放題となった。鳳凰殿は戦後すぐの1946年に放火で焼失した。 1973年にシカゴ市と姉妹都市となった大阪市の資金援助で庭園が整備し直され、1981年に再寄贈された。設計をした日系アメリカ人の造園師・カネジ・ドウモトはこれによってフレデリック・ロー・オルムステッド賞を1983年に受賞した。シカゴ・大阪姉妹都市20周年の1993年には「Osaka Garden(大阪庭園)」と改名され、日本文化を知る格好の場所として市民に親しまれていたが、2013年には庭園120周年を記念して日米交流の印として120本の桜が植えられ、2014年に「The Garden of the Phoenix(鳳凰庭園)」と改名された。
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