高等師範時代と現代教育観の脚光
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 00:32 UTC 版)
「伊藤長七」の記事における「高等師範時代と現代教育観の脚光」の解説
1901年4月、長七は東京高等師範学校へ入学。1903年10月21日には、諏訪高等小学校時代の教え子であり、高島尋常小学校の教員であった塩原ふゆと結婚。また、同年には諏訪中学校の依頼を受けて、校歌「東に高き」を作詞している。1905年、師範学校の研究科を卒業するとすぐに同校の附属中学校の英語科助教諭(5年後に教諭昇格)に就任した。 1912年、東京朝日新聞の文化欄に、長七が黒風白雨楼のペンネームで、当時の教育界の様々な諸問題を鋭い視点で革新的に論じた「現代教育観」を全48回にわたって掲載。一教師であった長七の評論が掲載された背景には、長野師範学校の学友である太田水穂の推薦があった。「圧迫になやめる現代の中等教育」「女学校教育の価値」「画一教育の普及」「入学試験の悪影響」「軍事中心主義の弊」といった題目で、旧態依然の教育界の刷新を紙面で訴えた。この記事の掲載は、当時の教育界のみならず、各界で大きな話題を呼ぶことになり、伊藤長七が知られるきっかけとなった。
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