高知から東京、そして札幌へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 14:00 UTC 版)
「広井勇」の記事における「高知から東京、そして札幌へ」の解説
1862年(文久2年)、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)において、筆頭家老深尾家の家臣で土佐藩御納戸役を務める広井喜十郎とその妻、寅子との間に長男、数馬として生まれる。同郷同世代の牧野富太郎同様、幼い頃から郷校名教館(めいこうかん)で儒学者伊藤蘭林(1815年-1895年)に学んだ。数馬の曽祖父広井遊冥(1770年-1853年)もまた、かつて名教館で儒学や和算を教えており、蘭林はその弟子であった。 当時はまだ安政南海地震の爪跡が残る時代だったが、幼い頃の数馬は浦戸湾の入口にあたる種崎村(現、高知市)の海岸で、十数年前に津波が襲来した際、堆砂の中に埋没し忘れられていた堤防が露出して津波を防いだという話を聞かされたと記している。この堤防は、遡ること200年前の1655年(明暦元年)に、野中兼山が造らせたものであった。 9歳のときに父と死別し、名を勇と改める。11歳で上京、叔父である男爵片岡利和の邸宅に書生として寄宿しながら工部大学校予科へ入ったが、16歳のとき、工部大学校の学費方針変更を受けて、全額官費で生活費も支給されるという札幌農学校に入学を決めた。
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