高畠以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 04:55 UTC 版)
高畠没後の国家社会主義は、津久井龍雄や石川準十郎を中心に動いていく。そのため高畠が長生しても、政治的方面としては津久井、研究者的側面としては石川を越えるものではなかったであろうとされている。 津久井は主として国家主義者として実践的に活動した。1936年の二・二六事件以後、日本の状勢が一変すると、津久井は寧ろ反軍運動に転向し、敗戦後は再び日中友好を唱えて転向するなど、二転三転した。しかし高畠的な冷徹な観察眼を保持していたといわれている。 それに対し、石川は、主として研究的側面に高畠理論を発展させた。特に石川は、高畠にあっては国家と社会との関係が整合的に捉えられていなかった点を踏み込んで分析し、国家が亡びても社会はなくならず、常に社会を基準として再び国家を取り戻す運動が起こることを指摘している。しかし国家なき社会が如何に悲惨な境遇に置かれるかを指摘し、国家必要の重要性を強調している。 また軍部や日中戦争にも批判的で、特に政府が単なる支配維持の為に、共産主義を含むあらゆる革新的主義・主張を弾圧し、国民にそれらを知らしめぬよう弾圧を加えることを批判している。彼はそのような神国主義政治は、必ずや決定的な危険を伴うことを繰り返し指摘し、数少ない支持者とともに日夜研究を重ねていたといわれている。石川は1934年に大日本国家社会党を結成して党首となったが、大政翼賛会以後に次々と政党が解党していく中、最後まで労働組合を背景に政治活動をしていたことでも知られている。 ナチス研究は、既に日本政府が1934年には始めていたが、石川が1943年に出版した『マイン・カンプの研究』は、その名の通り、ヒトラー『我が闘争』第一部の研究書であった。石川は自己の国家社会主義の正しさを信じ、敗戦後も一貫して国家社会主義を奉じた。
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