高岩山の物語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 00:25 UTC 版)
「高岩神社 (能代市)」の記事における「高岩山の物語」の解説
高岩山は鎌倉時代末期から行場としての働きをしていた。この地区の中心となる霊場として、多くの修行僧がこの山で修行を行っていたとされる。 高岩山の西南にあった館平城(二ツ井町館ノ下西方の山城 標高87m)は、比内浅利氏が支配していた。浅利氏直系の浅利則祐の子浅利則治はこの館平城で8歳まで過ごしたが、比内の長岡城は叔父の浅利勝頼によって支配されており、則治は館平城に戻り1581年に館平城で死亡したとされる。(藤琴村に逃れ藤琴浅利氏の祖となったとも言われる)その後、館平城は浅利氏重臣の額田甲斐守が支配し、檜山安東氏から浅利氏を守る最前線となっていた。 1582年当時、高岩山の密乗寺は御坊十指に余ることから四八寺と呼ばれていた。密乗寺の密教信徒は陰険で、雇われた僧兵は横暴を極めたとされる。 僧兵は村人にも乱暴な振るまいをしたり、無法な行動は村人からも嫌われていた。僧兵は長髪を隠す為に、頭に裏頭をかぶり長髪を隠して村人に接し、寺領の田畑からの年貢の取り立てや雑務に従事していた。僧兵はほとんどが税金逃れの無頼の徒で宗教から離れており、それに対して学生や学侶と呼ばれていた人はほとんどが良家の出身で学業を目指して修行をしていた。 舘平城の額田甲斐守は僧兵の動きを探ろうと、僧兵を館平城に招いた。額田甲斐守は僧兵に飲食戒である生臭いタニシを振る舞った。侮辱されて帰った僧兵は、まもなく額田甲斐守を寺院に招待した。額田甲斐守は懐忍をしのばせ高岩山に登った。宴は予想に反してねんごろに行われた。しかし、額田甲斐守は寺院の一つである薬師寺で入浴を進められ、汗を流しているところを窓越しに槍で突き殺された。異変の報を聞いた城兵は寺院に決死の殴り込みを行い、僧兵は逃走した。 しかし、城主のいない館平城は安東実季に攻められ、1582年に落城し、戦国の世から消えていった。また、1582年高岩山も安東実季によって危険視され焼き払われた。残された寺は密乗寺と如来寺であったが廃寺となっていた。
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