飛騨女工の通い道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 00:08 UTC 版)
近代になってからは、飛騨地方から岡谷・諏訪の製糸工場へ働きに出た女性が通った街道として知られており、山本茂実の小説『あゝ野麦峠』で有名になった。明治の富国強兵時代、軍備増強のために日本は生糸や絹織物を輸出して、大砲などの兵器や武器の原料を輸入するために、外貨を稼ぐ絹織物・生糸の増産が必要であった。諏訪湖畔につくられた製糸工場では、現金収入に乏しく貧しい飛騨の農村女性が多く働いていた。 少女たちは、製糸工場の女工として野麦街道を通ったのは、年末年始と盆の2回の休暇に、親が待つ故郷に帰省するために往復したものであり、その時期に限られていた。年末の帰省と2月から3月頃に飛騨から信州に戻る際に、行きも帰りも雪深く厳しい道のりであるために、野麦峠越えの途中で行き倒れる工女も少なくなかった。野麦峠に置かれた石仏は、峠を越えることができなかった少女たちを祀ったものである。 1934年(昭和9年)に高山線が全通してからは、製糸女工が野麦街道を通ることはなくなった。
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