非実在説・非実子説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 02:11 UTC 版)
「羽柴秀勝 (石松丸)」の記事における「非実在説・非実子説」の解説
これらの傍証があるにもかかわらず秀勝の実在を疑問視する声(非実在説)は残っているが、考証的見地からは「秀勝」という人物が天正4年(1576年)に亡くなったということは事実と推認できる。秀勝が秀吉の子として葬られていることも確かであろう。 しかし秀勝が秀吉の最初の子であると推定するにしても、最初の実子であったかは疑問であるという意見があり、根拠とする史料は前述の推定以外には存在しないためにこれを明らかにすることはできないという問題がある。妙法寺は秀吉の姉・日秀尼が開基となった瑞龍寺と深い関係にあり、両寺は共に日蓮宗であることから、本光院朝覚居士は日秀尼の子で、秀次などと兄弟で、同様に秀吉の養子になったという推論が成り立つという説(渡辺の説)もある。 史家の意見は分かれており、前述の説を述べた渡辺世祐は「実子であるか、あるいは養子であるかは不明だが、太閤の子であったことは事実である」とする不明の立場を取るが、桑田忠親は実子説を主張し、小和田哲男もその桑田説の影響を受けて実子説を支持する。宮本義己も「幼くして逝った一人っ子の実子がどうしても忘れられず、後の養子に次々と秀勝の諱を用いたのではなかろうか。」と実子説をとっていた。これに対して福田千鶴は実子説は確証がないと疑問視した。 長浜城歴史博物館では、森岡榮一副参事(当時)が『秀吉が養子に次々と秀勝と名づけていることから、秀吉が「秀勝」という名乗りにかなりの愛着があったことは疑いなく、「最初の秀勝」が実子である確率は高い』と書いて実子説を有力としていた一方で、太田浩司館長(当時は学芸員)は「桑田説は全くのツジツマ合わせで、秀吉研究の第一人者には失礼であるが、歴史学の論証としては成立しない」と非実子説をとる。服部英雄は(考証的に不成立という点で)「まったくそのとおりであろう」と太田説を支持し、非実子説を主張している。
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