非同調的作曲家への不寛容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 15:10 UTC 版)
「ベリャーエフ・サークル」の記事における「非同調的作曲家への不寛容」の解説
リムスキー=コルサコフはベリャーエフ・サークルに作曲家の偏りはないとしていたが、サークルと5人組はいずれも自らの規範に従わない音楽作品に対して同じような疑いを持っていたと音楽学者のソロモン・ヴォルコフは述べている。このことはモスクワの作曲家でチャイコフスキーの庇護を受けたセルゲイ・ラフマニノフの交響曲第1番に対しては特に当てはまった。晩年は過度に進歩的でない音楽を好んでいたリムスキー=コルサコフは、リハーサルでこの交響曲を耳にするや前もって警鐘をならしたのだろうか、ラフマニノフに向かって「許してほしいのだが、この音楽には私にとって心地よいところが全く見当たらない」と述べたという。現存する多くの記録によると、リムスキー=コルサコフが聴いたグラズノフ指揮によるリハーサルは演奏が悲惨な出来であるのみならず、楽譜をひどく茶化したものだったとされる。1897年3月28日にサンクトペテルブルクで行われた初演もそれと変わりないものだった。キュイは作品評として様々書き記す中に次のように述べている。「もし地獄に音楽院があったとして、そこのある優れた学生が十の災いの話を題材に標題付き交響曲を書くことになり、ラフマニノフ氏の作品のような交響曲を作曲したのだとしたら、彼は仕事を見事にこなしたことになって地獄の住人を満足させられるのだろう。」この交響曲はラフマニノフの生前には2度と演奏されることがなく、彼は総譜を破棄したり否定したりすることがなかった一方で神経衰弱に陥り、創作活動に3年間の空白が生じることになった。
※この「非同調的作曲家への不寛容」の解説は、「ベリャーエフ・サークル」の解説の一部です。
「非同調的作曲家への不寛容」を含む「ベリャーエフ・サークル」の記事については、「ベリャーエフ・サークル」の概要を参照ください。
- 非同調的作曲家への不寛容のページへのリンク