陸上作戦に向けたアメリカ合衆国の準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 15:23 UTC 版)
「フィリピンの歴史 (1898年-1946年)」の記事における「陸上作戦に向けたアメリカ合衆国の準備」の解説
最初の交戦でデューイが勝利したことの思いがけない敏捷さと完璧さは、マッキンリー政権にスペインからマニラを奪取する決定に駆り立てた。アメリカ陸軍はフィリピンに展開する準備として第8軍団(英語版)(ウェズリー・メリット(英語版)少将の指揮下で10844名を含むことになる部隊)を招集し始めた。 第8軍団の部隊が到着するのを待つ間にデューイはアギナルドをフィリピンに運ぶために香港にカッターのアメリカ合衆国密輸監視船(英語版)マッカロック号(英語版)を派遣した。 アギナルドは5月19日に到着し、デューイと短時間面会すると、スペインに対する革命活動を再開した。5月24日、アギナルドは正当に選出された大統領に賛成して辞職すると言いながら、フィリピン全軍の司令官に就任し自身が独裁者として独裁政府を創設するつもりであるとする宣言を発した。 大衆の歓喜がアギナルドの帰還を祝賀した。多くの下士官がアギナルドの指揮に加わるために地元のスペイン軍から敵前逃亡し、スペインに対するフィリピン革命が再開した。ラグナ州やバタンガス州、ブラカン州、ヌエヴァ・エシハ州、バターン州、タヤバス州(現在のケソン州)、カマリネス州(英語版)ような一部の州全体同様にイムスやバコール(英語版)、パラニャーケ、ラスピニャス、モロング(英語版)、マカベベ(英語版)、サンフェルナンドのような多くの都市が解放され、カヴィテのダライカンの港が確保された。 アメリカ軍の最初の分遣隊が6月30日に第8軍団第2師団師団長トーマス・マッカーサー・アンダーソン(英語版)准将の指揮の下到着した(この時代のアメリカ合衆国の師団や旅団の番号は、陸軍を通じて特有のものではなかった)。アンダーソン将軍はアギナルドにスペイン軍に対する軍事作戦に対する協力を求める手紙を書いた。アギナルドはアンダーソン将軍に対して友好的な心情に礼を述べながら軍事協力については何も言わずに回答した。アンダーソン将軍は要請を繰り返さなかった。 第8軍団の第2師団と第2旅団がフランシス・V・グリーン(英語版)准将の指揮の下に7月17日に到着した。メリット少将(フィリピン遠征隊最高指揮官)と参謀は、7月25日にカヴィテに到着した。第8軍団第2師団第1旅団はアーサー・マッカーサー准将の指揮の下に7月30日に到着した。
※この「陸上作戦に向けたアメリカ合衆国の準備」の解説は、「フィリピンの歴史 (1898年-1946年)」の解説の一部です。
「陸上作戦に向けたアメリカ合衆国の準備」を含む「フィリピンの歴史 (1898年-1946年)」の記事については、「フィリピンの歴史 (1898年-1946年)」の概要を参照ください。
- 陸上作戦に向けたアメリカ合衆国の準備のページへのリンク