阿多忠景の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 07:21 UTC 版)
一族の阿多忠景(平忠景)は、阿多郡を大宰府に寄進するなど一族内で勢力を伸ばし、継嗣の兄である川辺道房を討つ。兄弟である頴娃忠永、別府忠明や鹿児島忠吉の支援を受け薩摩国や大隅国の荘園を奪い、あるいは国府の支配強化を進めた。 その頃中央では平清盛の権勢が伸長した時期であり、朝廷より薩摩、大隅、日向の三国で専横したかどで追討の宣旨を受け、清盛郎党平家貞に攻められ平治年間(1159年 - 1163年頃か)には硫黄島(鬼界ヶ島または貴海島)に流れたと伝わる。忠景の所領(久吉名(みょう))は薩摩国府の大蔵氏に与えられた。 阿多郡(現・南さつま市)は12世紀当時天然の良港(坊津港、万之瀬川河口)を備え南九州の交易の中心であった。日宋貿易やそれに伴う高麗貿易、南島交易の最重要拠点であり、また同貿易が朝廷の統制を受けない私貿易であった。川辺・阿多一族も交易利権で勢力伸長しており。大宰府を含む交易利権を巡る平氏政権との衝突が背景にあった。 源為朝が忠景(もしくは忠景の子・忠国)の女婿だったとする説がある(保元物語)。
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