本土との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:00 UTC 版)
本土(大和)からは、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛が薩摩・「鬼界ヶ島」に配流されたと伝わる。また、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)の条には、阿多忠景の乱を起こした伝・薩摩平氏の阿多忠景(伝・平忠景)が「鬼界ヶ島」に逃亡、源頼朝が義経征伐を兼ねて同島を征討し地頭を置いたと記録される。 この「鬼界ヶ島」は、俊寛については喜界島に比定する説と、薩摩硫黄島に比定する説とがある。吾妻鏡については不詳。 『漂到琉球国記』(1243年、後述)や臨済僧虎関師錬著『元亨釈書』(1322年)では、日本から見て奄美大島を含めた南方の島々は日本の影響下にあり「貴海国」と称され、いっぽう奄美より南の「琉球国」は異域と見做されていた。 13世紀頃の『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。『漂到琉球国記』は、肥前松浦党と天台僧慶政が「琉球国」のいずれか(奄美から台湾までのいずれかは不明)に漂着、原住民と接触した様子が慶政により記されている。 奄美群島には、北隣のトカラ列島と同じく平家の落人伝説がある。平資盛が壇ノ浦の戦いから落ち延びて喜界島に潜伏、のち平有盛、平行盛と共に奄美大島に入ったと言う。大島の名瀬浦上には平有盛神社が、大島の戸口には平行盛神社もある。
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