阪神選手時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 05:38 UTC 版)
1983年に、一軍公式戦へデビュー。 1986年には、当時のレギュラー遊撃手・平田勝男の故障で一軍に昇格すると、4月26日の対中日ドラゴンズ戦(甲子園)で一軍公式戦初本塁打を満塁本塁打で記録した。この年以降は、主に三塁・遊撃の守備要員として、1990年代の前半までバイプレーヤーとして活躍。その一方で、背番号を36に変更した1988年には、9月7日のウエスタン・リーグ公式戦(対南海ホークス)で、相手チームの永田利則と首位打者争いをしていたことから、全5打席敬遠を記録している。その結果、打率.3250で、永田に2毛差で敗れて首位打者獲得はならなかった。 1990年では、一軍の公式戦で左翼の守備を経験するとともに、主に2番打者として18試合でスタメンに起用。シーズン全体では、自己最多の88試合に出場するとともに、打率.282、1本塁打、8盗塁という成績を残した。 1991年には、背番号を4に変更するとともに、二塁手としても起用されている。 1992年には、9月11日 - 12日の対ヤクルトスワローズ戦(阪神甲子園球場)に、試合途中から遊撃手として出場。3 - 3の同点で迎えた延長15回裏2死1・2塁で、前打者のトーマス・オマリーが敬遠四球で出塁したことを受けて、2死満塁で打席に臨んだ。この打席で1ボール2ストライクから岡林洋一が投じたボールにハーフスイングで対応したが、空振りという判定で三振に倒れたため、当時のNPBの試合規定によって引き分けで終了。試合時間は6時間26分で、NPB公式戦の歴代最長記録を達成した。 1994年以降は、一軍公式戦への出場機会がなかった。 1995年10月6日に球団から戦力外通告を受けたことを機に、同年11月15日付で現役を引退した。
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