阪妻と女性たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 06:32 UTC 版)
阪妻プロを立ち上げ、人気絶頂だったころの阪妻は、その遊びぶりも豪快なものだった。アラカンは「時代劇の王者は何とゆうても阪東妻三郎、女遊びもこの人にはとても及びまへん、散財のケタがちがう」と語っている。阪妻プロの映画は、松竹の買い取り価格が一尺あたり二円四十銭だった。「捕り方パッと走っても二、三百円稼ぐんだ、その銭をつかんで撒く、勝負になりまへん、祇園の芸者総揚げにした。伝説やおまへん、この目で見ました」、「花見小路から八坂さんまでずら〜っと、芸者末社ひきつれて大名行列を繰り広げた」 1928年(昭和3年)、昭和天皇の御大典に合わせて、東京から京都へ「偉い人たち」が大挙押し寄せ、祇園や先斗町で権柄づくの野暮天風を吹かせた。「お上が大嫌い」という阪妻はこれが気に喰わず、今東光と示し合わせて祇園街を買い占めてみせた。アラカンは「王城の都の歴史にないことを妻さんやってのけた」、「妻さん身持ち固かったとワテは思います、女道楽よりも男の意地でゼニ撒いたんやないか。尺二円四十銭、今の金に直してシャシン一本何千万円、いや億になりまっしゃろ、ためたらバチが当たりますわ」と、このときの様子を語っている。 環歌子は阪妻とはマキノ時代からの同僚で、大正12年、マキノ省三から「お前さんのシャシンは評判がいいから、今度の相手役はお前さんの気に入ったものを選びなさい」と言われ、ちょうど阪妻とのコンビが評判になって来た時だったので阪妻を選んだ。これが『火の車お萬』で、当時阪妻は撮影所近くに中村吉松と下宿していたが、急に人気が上がり、特に年増の女性にもて、肉屋の女中や料理屋の仲居をファンに連れて撮影所を出入りする姿をちょいちょい見かけたという。 環には、着流しで数人女連れの阪妻の姿は浮ついてだらしなく見えたので、「もし今度のシャシンで共演する気があるなら、撮影に入ったら仕事中はきちんとした服装で出所する、プライベートの時間は何をしても自由だが一本の仕事にかかったら終わるまで、女はファンだろうと誰だろうと近づけないようにしてほしい」と注文をつけた。阪妻は黙ってじっと聞いていたが、このときは「ちょっと考えさせてほしい」と云って帰り、翌日になって「環さんの言うことはよくわかりましたから、よろしくお願いします」と返事をしてきた。『火の車お萬』は大正13年正月のヒット作となった。作中での阪妻の脚の線の美しさが話題となった映画でもある。
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