関西/ファニーズ時代
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「ザ・タイガース」の記事における「関西/ファニーズ時代」の解説
ザ・タイガースの原型は、瞳みのる、岸部修三(岸部一徳)、森本太郎、加橋かつみの(沢田を除く)4人で1965年6月に京都市で結成された「サリーとプレイボーイズ」である。瞳、岸部、森本は京都市立北野中学校の同級生(瞳と森本は小学校も同窓)で、加橋は京都府立山城高等学校夜間部で瞳の2学年下だった。 彼らは1964年ごろから集って京都の四条河原町界隈で遊ぶようになった。1965年1月に大阪で開かれたベンチャーズのコンサートに4人で出かけたことがきっかけでバンド結成へと至った。当初はベンチャーズなどのエレキインストナンバーを主なレパートリーにしていた。 しかし、ビートルズなどのリバプールサウンドの影響もあり、森本らは専属ボーカルの必要を感じるようになった。4人は、四条河原町のダンスホール「田園」に出演していた「サンダース」でボーヤ兼ボーカルだった沢田研二を勧誘する。 1966年元日、沢田は正式に「サリーとプレイボーイズ」のメンバーとなり、あわせてバンド名を(バンド「リンド&リンダース」の命名で)「ファニーズ」に改称し、歌主体のいわゆるボーカル・インストゥルメンタル・グループとなった。リーダーは、瞳に固定された。 ファニーズは、さっそく大阪・難波にあったジャズ喫茶「ナンバ一番」の専属オーディションを受け、2月から週2日のステージを行う契約を結ぶ。5人は、本格的な音楽活動のため大阪市西成区岸里のアパートで合宿生活に入る。ナンバ一番ではビートルズ、ストーンズなどの曲を、英語で歌っていた。 その後、人気が出て出演回数も増加、5月に京都会館で開かれた「全関西エレキバンド・コンテスト」にローリング・ストーンズの「サティスファクション」で参加し、優勝した。この賞金でバンドは揃いのユニフォームを新調する。さらに、6月には「ナンバ一番」の人気投票で1位となる。こうした人気に、東京に移る勧誘も複数持ちかけられた。 東邦企画の上条英男によるもの(他のバンドに、岸部・森本・沢田の3人を加入させる話。沢田が即座に拒絶)、ザ・スパイダースによるもの(マネージャーが「ナンバ一番」に来店した際に「リーダーの田辺も話したいと言っている」と名刺を沢田に渡した)があったが、いずれも実現には至らなかった。ザ・スパイダースについてはファニーズ全員がファンクラブ会員でもあり、当初喜んだもののその後音沙汰がなかったため、森本と沢田が上京して直接田辺に面会したが、田辺の反応は冷淡で発展することなく終わった。 6月には、ブルージーンズの内田裕也が「ナンバ一番」のステージを観覧し、ファニーズに「東京に来る気があるか」と声をかけたが、その後3ヶ月ほど話は進展しなかった(この間、森本を除くメンバーはビートルズ日本公演の初日を観覧している)。そこで、リーダーの瞳が単身で上京して内田に面会し、メンバーを東京に呼ぶ約束を取り付ける。9月には、内田らブルージーンズが所属していた渡辺プロダクション(通称、渡辺プロ、現在のワタナベエンターテインメント)のオーディションを受けることになった。10月に「ナンバ一番」で開催されたオーディションを経て、ファニーズは渡辺プロと正式に契約を結ぶ。その後、「ナンバ一番」でさよなら公演、ファンクラブによる「お別れ会」をもって、関西での活動を終えることになる。
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