間宮一の捕縛とは? わかりやすく解説

間宮一の捕縛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/02 14:27 UTC 版)

鎌倉事件」の記事における「間宮一の捕縛」の解説

こうして共犯者を巡る捜査振り出し戻った矢先横浜近郊武蔵国久良岐郡雑色(現在の横浜市港南区笹下)にある成就坊という寺の三男である間宮一(18歳)が犯人ではないかとの情報得た幕府は、旗本内藤豊助の小姓となっていた間宮慶応元年7月11日(1865年8月31日)に捕縛した幕府取り調べに対して間宮はただちに犯行認め概ね以下のような供述行った自分母の死後、僧侶である父に育てられていたが、武士憧れて16歳の時還俗し平尾厳斎という浪士養子となって剣術修行明け暮れていた。しかし養父出奔し行方不明となったため実家戻り以前より外国人増長憤り感じていたので、その鬱憤を晴らすために同志2人鎌倉行きイギリス人士官斬殺した。犯行後江戸知人宅に身を寄せその後伝手頼って現在の主人仕えようになった犯行使った刀は刃こぼれができたので研師出した後、捕縛の時までそれを差していた。 幕府間宮犯行使用した刀をすでに押収しており、さらに間宮供述基づいて研師身柄確保するなど、供述裏付ける証拠得られたため幕府間宮犯人断定間宮9月11日(10月30日)に鞍止坂刑場処刑吉田橋にて梟首された。 なお「続通信全覧」に収録され水野忠精ハリー・パークス駐日公使慶応元年7月18日および翌月3日付の会談記録間宮逮捕伝え7月15日付の風説書によれば間宮供述によって姫路藩酒井忠績の元家来で、現在は旗本根来左衛門仕え飯田晋之介という人物共犯者として大坂捕らえられたという。 この飯田晋之介の名前は、間宮処刑の際に掲示され罪状書にも清水清次の変名井田晋之介」として挙げられており、同罪状書ではこの両者同一人物とされているが、幕末期著名な強盗旗本井田間宮の共通の知人であったという青木弥太郎によれば井田清水別人であり、また上7月15日付の風説書には清水清次について「全く外国申訳之為」に処刑されたとある事などから、清水犯人ではなく間宮井田両名こそが真犯人であるとする説も存在する

※この「間宮一の捕縛」の解説は、「鎌倉事件」の解説の一部です。
「間宮一の捕縛」を含む「鎌倉事件」の記事については、「鎌倉事件」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「間宮一の捕縛」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「間宮一の捕縛」の関連用語

間宮一の捕縛のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



間宮一の捕縛のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの鎌倉事件 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS