間宮一の捕縛
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こうして共犯者を巡る捜査が振り出しに戻った矢先、横浜近郊の武蔵国久良岐郡雑色村(現在の横浜市港南区笹下)にある成就坊という寺の三男である間宮一(18歳)が犯人ではないかとの情報を得た幕府は、旗本内藤豊助の小姓となっていた間宮を慶応元年7月11日(1865年8月31日)に捕縛した。 幕府の取り調べに対して間宮はただちに犯行を認め、概ね以下のような供述を行った。 自分は母の死後、僧侶である父に育てられていたが、武士に憧れて16歳の時還俗し、平尾桃厳斎という浪士の養子となって剣術修行に明け暮れていた。しかし養父が出奔して行方不明となったため実家に戻り、以前より外国人の増長に憤りを感じていたので、その鬱憤を晴らすために同志と2人で鎌倉に行き、イギリス人士官を斬殺した。犯行後は江戸の知人宅に身を寄せ、その後伝手を頼って現在の主人に仕えるようになった。犯行に使った刀は刃こぼれができたので研師に出した後、捕縛の時までそれを差していた。 幕府は間宮が犯行に使用した刀をすでに押収しており、さらに間宮の供述に基づいて研師の身柄も確保するなど、供述を裏付ける証拠も得られたため幕府は間宮を犯人と断定、間宮は9月11日(10月30日)に鞍止坂刑場で処刑、吉田橋にて梟首された。 なお「続通信全覧」に収録された水野忠精とハリー・パークス駐日公使の慶応元年7月18日および翌月3日付の会談記録、間宮の逮捕を伝える7月15日付の風説書によれば、間宮の供述によって姫路藩主酒井忠績の元家来で、現在は旗本根来五左衛門に仕える飯田晋之介という人物が共犯者として大坂で捕らえられたという。 この飯田晋之介の名前は、間宮の処刑の際に掲示された罪状書にも清水清次の変名「井田晋之介」として挙げられており、同罪状書ではこの両者が同一人物とされているが、幕末期の著名な強盗、旗本で井田と間宮の共通の知人であったという青木弥太郎によれば井田と清水は別人であり、また上記7月15日付の風説書には清水清次について「全く外国へ申訳之為」に処刑されたとある事などから、清水は犯人ではなく、間宮、井田の両名こそが真犯人であるとする説も存在する。
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