開校「大里学校から鳥羽尋小へ」(1873-1894)
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「鳥羽市立鳥羽小学校」の記事における「開校「大里学校から鳥羽尋小へ」(1873-1894)」の解説
日新塾の閉鎖と同時に、学制に則った学校を創立すべく、鳥羽藩最後の藩主・稲垣長敬、元藩士・近藤真琴らの出資により「鳥羽聯合小学校」を設立することになり、慶林寺に大里学校を開校し、藤之郷(現・鳥羽四丁目)の善昌庵に支校を設置した。大里学校には1873年(明治6年)5月に宮崎郷学校(現・神宮文庫)の分校を開設し、14歳以上の者に英学を教授した。しかし宮崎郷学校の分校は、度会県の命令で同年12月に廃止した。この間、11月20日に正式に設立を願い出て許可されたことから、同日が創立記念日になった。 1874年(明治7年)3月23日、大里学校は児童数増加で手狭となったため、来迎寺と安養寺を購入して校舎に充て、学校費として全住民から毎月2銭を徴収し始めた。それでも収容しきれなくなったため、1875年(明治8年)10月に中之郷学校、12月に藤之郷学校が分離独立した。1876年(明治9年)の秋期試験の結果が残っており、受験生は大里学校が130人(うち合格が80人)、中之郷学校が58人(うち合格が54人)、藤之郷学校が48人(うち合格が43人)であった。1879年(明治12年)6月、大里学校に裁縫科が設置された。1882年(明治15年)3月、大里・中之郷・藤之郷の3校の中等科四級以上を統合して光岳寺に収容し、1883年(明治16年)1月に中之郷・藤之郷の両校を分校、大里学校を本校として鳥羽学校に改称した。続いて1887年(明治20年)3月、鳥羽尋常小学校に改称し、藤之郷分校を廃止した。1890年(明治23年)6月、校舎3棟を改築・落成した。 一方、1888年(明治21年)6月に答志英虞郡高等小学校が藤之郷に開校した。校名の通り、答志・英虞の2郡で唯一の高等小学校(4年制)として設立し、児童数は86人(うち女子は12人)であった。1892年(明治25年)4月、答志英虞郡二一か町村組合高等小学校に改称し、甲賀村・波切村・和具村(いずれも現・志摩市)に分校を開設した。同年9月、組合から磯部村・鵜方村が離脱し、各分校を独立させ、本校であった鳥羽の高等小学校は答志英虞郡一九か町村組合第一高等小学校に改称した。
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