開校「大里学校から鳥羽尋小へ」とは? わかりやすく解説

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開校「大里学校から鳥羽尋小へ」(1873-1894)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/29 15:07 UTC 版)

鳥羽市立鳥羽小学校」の記事における「開校「大里学校から鳥羽尋小へ」(1873-1894)」の解説

日新塾の閉鎖同時に学制則った学校創立すべく、鳥羽藩最後藩主稲垣長敬、元藩士近藤真琴らの出資により「鳥羽聯合小学校」を設立することになり、慶林寺大里学校開校し之郷(現・鳥羽四丁目)の善昌庵に支校を設置した大里学校には1873年明治6年5月宮崎郷学校現・神文庫)の分校開設し14歳上の者に英学教授した。しかし宮崎郷学校分校は、度会県命令同年12月廃止したこの間11月20日正式に設立願い出て許可されたことから、同日創立記念日になった1874年明治7年3月23日大里学校児童数増加手狭となったため、来迎寺安養寺購入して校舎充て学校費として全住民から毎月2銭を徴収し始めた。それでも収容しきれなくなったため、1875年明治8年10月中之郷学校12月郷学校分離独立した。1876年明治9年)の秋期試験結果残っており、受験生大里学校130人(うち合格80人)、中之郷学校58人(うち合格54人)、郷学校48人(うち合格43人)であった1879年明治12年6月大里学校裁縫科が設置された。1882年明治15年3月大里中之郷之郷の3校の中等科四級以上を統合して光岳寺収容し1883年明治16年1月中之郷之郷の両校を分校大里学校本校として鳥羽学校改称した続いて1887年明治20年3月鳥羽尋常小学校改称し之郷分校廃止した1890年明治23年6月校舎3棟改築落成した一方1888年明治21年6月に答志英虞郡高等小学校之郷に開校した校名通り、答志・英虞の2郡で唯一の高等小学校4年制)として設立し児童数86人(うち女子12人)であった1892年明治25年4月、答志英虞郡二一町村組合高等小学校改称し甲賀村波切村和具村いずれも現・志摩市)に分校開設した同年9月組合から磯部村鵜方村離脱し、各分校独立させ、本校であった鳥羽高等小学校は答志英虞郡一九町村組合第一高等小学校改称した

※この「開校「大里学校から鳥羽尋小へ」(1873-1894)」の解説は、「鳥羽市立鳥羽小学校」の解説の一部です。
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