開いてしまった魔女の鍋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 08:04 UTC 版)
「バルカン戦線」の記事における「開いてしまった魔女の鍋」の解説
(ユーゴスラビア侵攻) (ギリシャの戦い)、(クレタ島の戦い)も参照 ギリシャはメタクサス首相を失いつつも激しく抵抗したが、徐々に枢軸軍に圧倒されていった。そして1941年5月30日、最後の拠点となったクレタ島からイギリス軍が撤退し、バルカン半島は完全に枢軸国の勢力圏下となった。 ギリシャは政府と軍隊が国外に亡命し、国土はイタリア、ブルガリア、ドイツに分割占領された。またユーゴスラビアでも政府が亡命し、国内は半独立のクロアチアとセルビアに分割された上、ドイツとイタリアに直接占領される地域、さらにハンガリー、ルーマニア、ブルガリアに占領される地域までありと、国内に複雑な境界線が何本も引かれた。さらに悪いことには、ドイツ軍は直後にソ連侵攻を控えてバルカン半島にあまり戦力を割ける状況になかったため、この地域は圧倒的な軍事力を有する組織も、頭一つ抜けた政治力を持つ組織もいないという混沌とした状態に陥ってしまった。これは必然的に占領軍に従う者、抵抗する者、多様な主張を掲げる政治勢力と武装組織が乱立する事態を招いた。 そして以後、枢軸側勢力は、現地の治安維持のための先の見えないゲリラ掃討戦に悩まされ続けるのである。 (ギリシア国、クロアチア独立国、セルビア救国政府)も参照 ユーゴスラビアの共産党系レジスタンスは「パルチザン」として有名になったが、彼らは占領軍と戦うのみならず、レジスタンス同士でも血で血を洗う抗争を繰り広げた。特にユーゴスラビア軍残党を主体とするミハイロヴィッチ率いる「チェトニク」はチトー率いるパルチザンと折り合いが悪く、共闘どころかチェトニクはやがて「敵の敵は味方」の理屈で枢軸軍に取り込まれていった。ドイツ軍はこれ以外にも占領下の地域で義勇兵部隊を組織しゲリラ狩りに投入、半世紀後に起きるユーゴ内戦を先取りするような殺し合いを激化させていった。なお、ドイツ軍は何度もチトーの逮捕や暗殺を試みたが、いずれも成功しなかった。 (ウスタシャ)、(チェトニク)、(パルチザン) (第13SS武装山岳師団)、(第21SS武装山岳師団)、(第7SS義勇山岳師団) (ユーゴスラビア人民解放戦争)、(ネレトヴァの戦い)も参照
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